戦後の理想の日本人像とは、サラリーマンであった。
出来るだけ大きな企業に入ること、それが目標で18歳まで勉強した。18歳の時に人生のコースが決まったのである。大学に行くか行かないかという選択、またブランドの順序が決まっている大学への入学、それによって企業の大きさ、知名度の高い企業に入れるかのおおよその目安がたった。上位3分の1が大企業に入れたのである。その後の出世も、大体の予想がついた時代である。会社に入ると、終身雇用、年功序列のルールで動いていた。転職は原則許されなかった。
しかし、1997年頃から時代の趨勢が変化してきた。大企業も潰れることがわかってきたのである。そして、大企業も必ずしも良いことばかりしてきたわけではないこともわかってきた。
ここ20年は、模索の時代が続いている。従来の理想の日本人像が崩れてきているのである。しかも、それに代わる像が見えてこない。
従来の日本人像の、長所は何であったか。安定した生活、時間が経過するに従って上昇して行く給与と地位。それに伴う社会的環境の改善(家が買えるとか、地位も上がり仕事も面白くなり、待遇が良くなるとか)。
しかし、従来のモデルに無かったものがある。それは自分の時間と個人の給与がなかなか自由にならないことであった。日本人に決定的に欠けるのは、個人の自由時間である。会社に入ると、サービス残業という無給の仕事や、単身赴任という会社の一方的都合による配置換え、その他によって、自分の時間は会社に預けたようなものであった。十数年前に宮本政於という役人がいた。米国で留学や就職をした経験から、日本の職場のしきたりを打破しようとして孤軍奮闘して、左遷をされたり、色々といじめを受けたりした人である。それが原因かどうかはわからないが、亡くなってしまった。彼は本を書いたりTVに出たりしていたが、彼がやろうとしたことは、仕事以外で自分の個人的な時間が欲しいということであった。彼の行動は、職場であちこちと支障をきたしたのであった。それを本にすると、また職場から圧力がかかったという次第であった。
もう一つ日本のモデルに欠けていたことが、個人のお金であった。働けるだけ働いて得られる給料は、他の先進国と比べて大したことが無かった。他の先進国の住居が長持ちするのに比べ、日本の住居は地震があるため、一代で耐用年数が終わるとか、狭い国土でひしめき合っているので、土地の値段が高いとかの理由もあった。しかし、社員が稼いだ多くのお金が会社の建物や、次代の設備投資や諸経費などに回ったこともその原因であった。会社に長くいるのも、クーラーが会社にあるからだなどと言われたり、会社の費用でタクシーや食事を利用することなどがその象徴である。
お金といえば、個人が生涯でどれほど稼ぐのか、それが会社によってどれだけ違うのかが週刊誌で取り上げられるようになったのも、この10年ほどのことである。昔は、大学生でも自分が就職受験をしようとしている会社から与えられたお金に関する資料は、初任給がどれほどだということだけであった。自分の自由になるお金のことなど就職の情報に無かったし、本人の意識にも無かった時代であった。
とにかく、規模の大きな会社に入っていれば、お金も地位も名誉も得られると思われていたし、現実にそうであった。老後に自分が年金や保険などで、いくらもらえるか、などは、ほとんどの人が考えもしなかったのである。
このように、人生で健康と並んで一番重要と思える、個人の使える時間とお金のことを軽視してきた、もしくは意識に無かったことが、日本モデルの大きな欠点であった。
それを打ち破ろうという風潮から自然に出てきたのが、フリーターであった。もちろん以上のことを意識していた人は一部かもしれない。しかし、自分の自由な時間が欲しいとか、自分の天職を探したいという大義名分を掲げるかどうかは別として、転職をしても平気だという傾向が出てきたのである。またパラサイトとか、ニートはその延長である。
東大卒も、官僚になるよりもお金になり独立も出来るというので外資系に行ったり、弁護士になる方を選ぶ風潮が出てきた。ホリエモン的な起業家生活を目指す若者も、一時は現れた。
いわゆる団塊の世代の人たちは、昔のモデルを追及して生きてきた人たちである。その人たちも3分の2はそれが実現された人たちで、3分の1はそうでない人たちだということである。そのモデルが実現された人たちは、今は何を考えているか。
自由な時間とある程度のお金を手にした彼らは、現在かなり悠々自適に生活しているようである。自分の趣味を追及したり、ジムに通ったり、地域活動をしたり、また子供や孫に小遣いをあげたり、生活を支えたりしている人もいるようだ。多くの人たちが多分実感していることは、こうした事を若いときから出来たら良かったということではないか。
しかし、こうしたことが出来た時代は既に終わっている。国際競争が激しくなってきて、非正規社員が増加し、人々の間での格差も広がってきている。
こうした中で、若者たちの今後の理想のモデルはどのようなものであろうか。これは現在模索されている過程にあり、ある形のものは自然に出てくるのであろう。しかし、今の時代は、そうした日本人に共通したモデルを追及するという発想が、そもそも古いのかも知れない。個々人によって異なるというのが、人間本来のありかたなのかも知れないからである。
いずいれにせよ、理想の日本人像というテーマは、今後とも模索さるべき課題だと言えよう。