新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。(31:14)
 30章は、香壇、半シュケルの贖い銀、清めの洗盤、任命の油、祈りの香が扱われました。
そして31章前半では、主への愛の善と信仰の善にいる者のもとに象徴的教会が設立されます。ユダ部族のベツァルエルと、ダン部族のオホリアブを指名して、礼拝の為のすべて設備・用具の完成を命じられたことで意味されます。(AC10326)

この指名は、二人の個人が選ばれたのではありません。
「ユダ部族のベツァルエル」は天界的愛の善にいる者を、そして「ダン部族のオホリアブ」は信仰の善と真理にいる者のことであり、これら最奥と最外部にいる者の間にいるすべてのよって教会が設立されます。(AC10329-3)
最外部の信仰の善と真理にいない者、すなわち信仰の真理を全く実行しない者は、教会の外側にいることになります。彼らは教会として認められません。

昔ある翻訳者が、翻訳をすることで真理を広げているので、自分は役立ちの善をしているとおっしゃっいました。しかし、自分の点検をせず、悔い改めることもないので、本人の生命には全く役立ちません。後にでてくる自分の業績を求める、木こりのようです。

愛の善と信仰の真理は全く人から出ず、天界にある神性から来て人の元にあります。これは教会とこれを受けて悟りの中にいる者の元にあります。(AC10330-2)

主は象徴的教会を設立されました。
主が教会を設立されるのは、最古代教会から古代教会、そして中味のない形だけの象徴的教会、そして現代主流の旧キリスト教会と連綿として続きます。
「そして、今日では御言葉をとおしてのみ啓示が与えられます。しかし真の啓示は、真理そのものを愛する者から来て、地位や金銭を得るため真理を愛する者からは来ません。・・これらの者には啓示の流入は不可能です。なぜなら、御言葉の文字の意味を読んだとき、心をそこに、そして自分の評価と栄光を置いてしまい、自分の愛に味方し、支えるものとして使うからです。」(AC10355-6)

例え、御言葉を持っていたとしても、真理を愛する者だけにしか啓示は来ません。
自分の富や名誉に執着するなら、啓示は得られないことになります。それは新教会でさえそうです。
スウェーデンボリ著作は啓示された御言葉です。しかし、スウェーデンボリィ自体に心を奪われて、主を愛さなければ、状況は変わりません。スウェーデンボリィは、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネと同じ、「福音伝道者」にすぎません。多くの人がこの誤りに入り込みます。
主イエスご自身を知り、その言葉を守らなければ、御言葉を中心とした教会は設立できません。

改めて教会とは何でしょうか?教会員とそれ以外を区別するものは、何でしょうか?

 「「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである。」( 31:13)

教会員とそれ以外を区別する「しるし」が「安息日」であると宣言されました。
 
「安息日を守る」とは、今は日曜とされている聖日に礼拝を行うことだけではありません。
「神性そのものと主の人間性の結合」を常に考え、意識せよということです。
「安息日」の意味が、
最高の意義で、主の内での、神性自体と主の人間との結びつき
相対的意味で、人間性に関する主と天界との結びつき、そして天界と教会の結びつき、
一般的意味で、教会にいる人の、善と真理の結びつきであり、教会との結びつきです。
(AC10356)
「神性そのもの」とは、主イエスが地上においでの間、「父」とされたものです。
「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)
「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10:38)
と主ご自身が明らかに語られたにもかかわらず、
父と子と聖霊は、それぞれ別の神格である、あるいは父であるエホバだけを信仰すべき、イエスはただの人である、などという異端的信仰が現代社会を覆っています。

正しい教えを身につけるためには、教会の一員となり、主から流入を受ける必要があります。この教会とは、世にある教会組織ではありません。

主とその内に神性があるのを認め、主と天界の結合を認め、そして、教会に人間と天界の結合をも認め、一般的に自分の内に善と真理の結合があるのを認めなければなりません。
これらの結合が人の内にあるとき、教会が作られます。(AC10357)
「これは、永遠に、わたしとあなた(イスラエル人)との間のしるしである。」(31:13)
このしるしは、外見からは見えません。心の内の確信です。

「これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。」(31:14前半)
この心の内の確信を、内にも、そして外に対して守ってゆかなければなりません。
安息を守るとは、神について言われた場合、礼拝を意味します。
「安息日」とは、父と呼ばれる神性と、子と呼ばれる神的人間の結合、すなわち、神的人間の内にその結合があることです。
安息日がこの結合を意味するのは、第七日の前の六日間の労苦によって、あらゆる状態の紛争が意味されるからです。
労苦とは、世で言われる労働ではなく、教会に入り、教会となる前の経験であり、悪と悪の偽りとの闘いをも含みます。
この霊的意味での労苦は、主がこの世におられたころ、経験されたものです。主はその時、地獄と闘い、天界と同様に秩序を回復されました。同時にご自身を栄化され、受胎のころからあった神性自体と結合され、ご自身を栄化されました。(AC10360)

安息日は、主と天界・教会、天界の天使、教会員との結合を意味します。天界に入る前に、悪と悪の偽りと闘わなければならず、悪と偽りと離された時、天界に入り、主と結ばれ、休みます。
真理が主導する時、闘うなら労苦を味わいますが、真理が善と結ばれるなら、善が主導し人は憩います。主が導かれるからです。
真理と善が結ばれるのは、天界的結婚と呼ばれます。
人は真理なしには天界には進めませんが、真理だけでも天界には進めません。また善だけでも天界には進めません。真理を行って善としなければなりません。

自分をふり返って見ます。自分が悪と偽りだらけなら、当然主を拒むことになり、天界から嫌われます。天界と地獄は対立しているからです。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

そして真理だけ、知識だけの頭でっかちも役に立ちません。その人の生命となってないからです。いくら真理に対する知識があったとしても、真理を実行して善としないなら、消えてしまいます。

「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」(31:14後半)
「安息日を汚す」とは主ではなく、自分自身とその愛によって導かれることです。
安息日に木を切り、火を点して、食事を用意することが禁じられたのは、「木を切る」ことが、自分に導かれ善行い、「火をともす」が自分勝手な愛を燃え上がらせて行い、「食事を用意する」とは自分の知性によって教えることを意味したからです(AC10362)。
安息日を犯す者を殺すのではありません。霊的な死を迎えることを予測しています。(AC10363)
そして、神の予測は、必ず実現します。

「安息中に仕事をする」とは、天界的愛から顔を背け肉体的」そして世的な愛に向かうことを意味し(AC10364)  民から断ち切られるのは、教会と天界から分離され、地獄に向かうことになります(AC10365)。

「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、【主】の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(31:15)
 天界的結婚の前の準備として、(AC10366)  教会を体現し、天界に入る善の状態を目標としなければならないことが意味されます(AC10367)。

天界とは場所ではなく、人の内部です。
そして人が善の内にいないと、人の内部が開かれることがなく、どんなに教義の真理にいようとも、閉じたままです。

人の全体は、善に関するもので、善のない真理ではありません。
善によって意味されるのは、歓びあるいは愛です。主と結ばれるのも、善のない真理ではなく、すなわち歓びのない真理ではなく、この歓びによって結ばれます。

主との結合は善によってなされます。しかし、今日は信仰の真理について多く学びますが、愛に属する善については善への無知から、わずかしか学びません。
人はあらゆる種類に悪に、そしてそれに伴う偽りに生まれついています。そして自らは地獄に向かっています。しかし人は自分が地獄に向かっていることを知りません。また地獄が何かも知りません。
人は自分の状況を知り、再生して天界に生まれなければなりません。そのためには、まず真理を知る必要があります。そして教会に属し、御言葉から学ばなければなりません。御言葉は何が悪と偽りで、何が善と真理であるかを教えるからです。そうでなければ人は再生することはできません。

先に真理を学び、知性が明るくされなければなりません。善と真理の知識によって明るくされ、これを意志し、行います。行うことで真理は善となります。

人の内にある真理と善がともに働き、善と真理が結ばれます。これが天界的結婚です。天界的結婚によって人は再生します。これが教会、そして天界と呼ばれます。主の王国であり、主が人とともにおられます。(AC10367-4)

主が人とともおられるようになった時、はじめて主が創造の御業を終え、休まれます。
これが安息日の本当の意味です。
「イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。」(31:16)

この安息日とは、教会に属する者と、属さない者を区別します。
それは主の人間の内に神性との結合があることを認めることです。(AC10372)

 「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは【主】が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」 (31:17)
「わたしと父とは一つです。・・それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」 (ヨハネ10:30,38)
アーメン

出エジプト記
31:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
31:2 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、
31:3 彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
31:4 それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、
31:5 はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。
31:6 見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。
31:7 すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、
31:8 机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、
31:9 全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、
31:10 式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、
31:11 そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

31:12 【主】はモーセに告げて仰せられた。
31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである。
31:14 これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。
31:15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、【主】の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
31:16 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
31:17 これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは【主】が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」
31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

マタイ
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。

ヨハネ
10:30 わたしと父とは一つです。」 
10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

天界の秘義10357. 
これは、永遠に、わたしとあなた(イスラエル人)との間のしるしである。
これによって教会に属していることが天界で知られる主要なことであることを意味するのは、「エホバとイスラエルの息子たちの間のしるし」が、教会の所属を示し証明する、すなわち、天界で知られる、主との結合を意味することから明らかです。
なぜなら、教会に所属し、内に教会がある者は、主とその内に神性があるのを認め、主と天界の結合を認め、そして、教会に人間と天界の結合をも認め、一般的に自分の内に善と真理の結合があるのを認めなければなりません。この結合が人の内に教会を作るからです。
「人と教会」、「人と天界」、「神の王国と教会」、そして「人と主」と言おうが、同じ事です。
なぜなら、教会は地上にある主の天界であり、神の王国はともに天界と教会であり、主はこれらの人から主であり、いや、これらそのものであるからです。