<ひるもよも ひびきのなだの なみをきき>
1950年制定の玉野市歌の一節だ。「ひびきのなだ」は、万葉の時代から
歌に詠まれた海域の名称。関門海峡の響灘や兵庫県沖の播磨灘など候補
地がいくつかあり、玉野では日比港近海との説が定着している。
(この記事は6月6日の【山陽新聞・社会面】からのご紹介です)
京の都に上る際、海賊船とおぼしき船に追われながら、ひびきのなだを
通過する場面が描かれる。
瀬戸内の海賊と言えば、芸予諸島の村上水軍が思い浮かぶが,「日比にも
海賊がいたんです」。地域史を掘り起こしている「ひびきなだ文化研究
会」の顧問、藤田和明さんが地元でも知られざる存在を教えてくれた。
その名は四宮水軍—。
日比の水軍を率いたのは戦国後期の武将四宮隠岐守(生没年不詳)という。
「四宮城」を築いたのが向日比の城山。瀬戸内海に突き出た半島状の地形
に標高85㍍の北峰と70㍍の南峰を連ねる天然の要外だ。
登頂ルートを調査している同研究会の西岡昇さんに案内してもらった。南
峰から北峰に続く尾根はV字状に下って上る。急斜面の難所を超えた先に、
備讃瀬戸の大パノラマが広がっていた。
足元に日比の港、正面に大槌島が浮かび、その背後に四国をはっきり捕らえ
る。西岡さんによると、眼下の海岸線の一部を「関の浦」と呼ぶとか。四
宮水軍は山上から海の”関所”を通る船をl監視し、航行の安全を保障する
対価に「礼銭」を徴収していたようだ。ならず者の海賊とは異なる、実像
が浮かび上がる。
豊臣秀吉による海賊禁止令(1588年)によって各地の海賊は海を追われ、
四宮水軍も表舞台から姿を消した。隠岐守については68燃(一説には71年)
に本太城(倉敷市児島塩生)の合戦で敗れた後の足取りが分からず、日比で
野に下ったとの伝承が残る。
日比港の近くで華道と茶道の教室を開く四宮美智子さんは、亡き父から隠岐
守の子孫と教えられ育った。江戸時代の建築という屋敷は,要人を迎える「御
成門」や駕籠を置いた「御駕籠石」が現存し、由緒を感じさせるたたずまいだ。
御成門の脇に<是よりゆ可山江九十六丁>と記された古い道しるべがあった。
かって屋敷は港に面し、日比で下船した人々が由加参りに向かう由加東往来
が門前から延びていたという。
海と道。その往来を見守り続けた一族の末裔は穏やかな人だった。暇を告げ
ると、港まで見送ってくれた美智子さん。「ご先祖が日比にとどまった理由
なのかもしれませんね」と話す視線の先で、ひびきなだの水面と対岸の城山
が西日に照らされていた。