今年24歳になる私は厄年に入っている。確かに今年に入ってからあまりことがうまくいっていない気がする。うまくいっていることもあるのだが、うまくいっていないことのほうがかなり多い。そんな気がするだけかもしれないが。

 人は運が悪い時、運がいいときがある。運が悪い時は何事もうまくいかないわけではないと私は思う。何事もうまくいかないのは運のせいではなく、その人の努力が足りないからだと思う。何かがうまくいったときに全く関係のない別のことがうまくいかないときが運が悪い時ではないだろうか。一方で努力を尽くし成功しても、そのときもう一方の何かが手のひらからこぼれてしまう。そうなっては努力を尽くして成功したことも素直に喜べない。運が悪いとしかいえない。

 今年厄年の私は現在人間関係ABにおいてそれに似たようなことが起きている。Aが手のひらからこぼれそうになり、それをこぼさないようにするとまたBがこぼれそうになる。こういうときはいっそこぼしてしまったほうがいいのだろうか。しかし私にはどちらを落とせばいいのかわからない。いや、両方とも落としたくないのだ。ただの欲張りかもしれない。こんなことを繰り返せばそのうち両方落としてしまいかねないだろう。

 普通だったら既にBを落としているはずだが、私がAを落とさないようにしたときBが何とか落ちないようにしてくれている。私はそれをわかっていながらBの忍耐力に甘え、Aばかりに気を使っている。Bの忍耐力もそろそろ限界を向かえるだろう。Bの限界が来た時、Bを拾いにいくためにAを捨てる勇気が私にあるだろうか。今、私は「Bは落ちても後から拾える」と思っている。とんでもない甘えだ。なんて都合の良い考え方だ。


 こんな甘ったれた私にBはもったいない気がする。こんな状況になっても関係を続けてくれているBに感謝しなければならないとこのブログを書いていて思ってきた。

 以前はそんな考えも思い浮かばないくらい余裕がなかった・・・。これからはBにももっと気を配ることにしよう。どっちつかずの状況は続くが、たぶんBは落とさないと思う。Aが落ちたとしても・・・。Aが落ちた時はきっとBが慰めてくれるはずだ。


 あ、韓国一点決められた。


 今日はチャンピオンズリーグ決勝がある。私はアーセナルを応援しているが、実際今のバルセロナに勝つのは至難の業だろう。でも頑張って欲しい。昨シーズンのチャンピオンズリーグの決勝はとても劇的なものだった。私は友達の家でミラン応援組とリバプール応援組に別れてテレビを見ていた。私の応援していたミランは負けた。もしかしたら今回も私の応援しているチームが負けるかもしれない。

 こういうことは私の周りにはよく起こる。昔働いていたガソリンスタンドのバイト先は私が入ってからだんだん暇になっていき24時間営業が12時までになり11時までになり、最終的にはセルフになってしまった。その後に入ったのもガソリンスタンドだがそこも私が入ったとたん売り上げが落ちた。今務めているところもどうやら私が入ってから売り上げが伸びていないようである。私がサボりまくっているなら話はそれで丸く収まる。私ががんばればいいのだ。しかしそうではない私は私が出来る限りのことをやっているつもりだ。だから不思議でしょうがない。なぜだ?

 「私が応援するチームは負け、なにも応援しない時は負けない。私のいる仕事場の成績は下がる。」

 理由はどうであれ、これは私の運命だろう。この運命を素直に受け止め、他人の迷惑にならないように生きていくしかないのだろう。

 人にはそれぞれ違った星のもとに生まれている。何をやってもうまくいく人、うまくいくと思って口に出したらうまく行かない人、女が寄り付く人、女が寄り付かない人、怪我をしやすい人、などなど。色々いる。

 そういう風に人はある星のもとに生まれ、一生懸命生きていく。人生は生まれながらにある程度不自由になっている。だから人はその不自由から抜け出そうと一生懸命になれるのかもしれない。

よく女の台詞でこういう言葉を耳にする。

「体が目的だったのね」


 確かに男は愛情とは関係なく女を抱くことがある。私は男だからその気持ちはわかる。

女の人はよく男は愛が無くても抱けると言う。正解だ。それは間違っていない。しかし、私個人の意見からすると、女はSEXが無ければ愛されていると感じないのではないかと思う。当然、SEXが心から嫌いな女の人や性的不能力者である人に対してはそういった感情は抱かないのかもしれないが。


 ここからは私の個人的な考えを述べる。

 「男は愛が無くともSEXができる、一方日本の女はSEXが無ければ愛が実感できない。」


 女の人は男と付き合い始めるときは、男と比べ性欲が少ないのでSEXに対しての執着心が無い、逆に男はSEXを性欲からするようになる。男に愛が無くてもSEXはできる、女はその男を愛しているからそれを受け入れる。これでSEXが成り立つ。この時点で男が女を捨ててしまうと女は先の台詞を言うのである。その台詞を言わない女はSEXによってそのときは愛されていたと思い、納得しているか満足しているかである。悪い言い方になるが、満足する女の人はアバズレだと思う。

 長く付き合っていると男の性欲もある程度おさまり、相手のことを思いながらSEXするようになる。女の人は、SEXされることで愛を感じるようになり、更なる愛を求める。女の人は相手の態度がよくなく愛されているかどうかわからないときにSEXをすると愛されていると実感する。この頃になると女の人が男に対して抱く少々の不満はSEXで解消される。

 問題は付き合い続け男が性的不能者になったときや、体力的にSEXをすることができなくなったときである。そのとき女の人は抱かれないことに対し、自分に魅力がなくなった、愛されなくなったと思う。実際に50代の男女にアンケートを取ると、男が女に対し不満を持っていないのに対し、女は男に対しかなりの不満を持っている。愛されていないという不満だ。愛されていないと思ってしまった女の人は男に対して不満がたまり、年金などの要素もからみ、ある結論に達する。離婚だ。これが熟年離婚のオーソドックスな形だと思う。

 日本に熟年離婚が多いのはセックスレスになった夫婦が多いからだと思う。なぜ世界では多くないのに日本では多いかというのは、日本人の男性は基本的に口下手で、「愛している」言う言葉がなかなかいえない。その分日本の女性は言葉の代わりに体で愛を感じ取るのだ。だからセックスレスによって女は離婚という道を選んでしまう。

 熟年離婚を阻止するために今から日本の男性に妻の前で「愛している」と言えと言っても無理だろう。だから、熟年離婚をしたくないならSEXをしろ!SEXはコミュニケーションだ。男ならそこに本当の愛が無くてもSEXはできるはずだ。・・・性的不能者は言葉で何とかしてくれ。 

 昨夜、テレビでPRIDE GPを見た。 私はその一試合を見て泣きそうになった。藤田和之VSジェームス・トンプソン戦でだ。当然私は日本人である藤田を応援していた。藤田は約3年ぶりのPRIDE戦でその間に進化し続けたPRIDEの選手達と戦っていなかったため、実況・解説者ともにその進化に驚くのではないかと心配していた。

 その心配は的中し、藤田の劣勢が続く試合展開になった。藤田はトンプソンのヒザを脇腹に何度もくらい、パンチを顔面にくらいまくった。私はあの強かった藤田があまり戦歴の無いトンプソンに負けてしまうのではないかと思いそうになった。実際もう負けると思った。しかし、本人はふらふらになりながらも戦い続けた。しばらくして藤田がテイクダウンをとられガードポジションになった。ガードポジションというのはSEXをするときの正常位の体勢で、この場合藤田が女、トンプソンが男の方のことである。藤田はグランド(地面に相手を倒してからの攻防)を得意としているが、それは藤田が上になったときのもので、下の場合は得意ではなかった。実際他の試合で藤田がグランドで下になることなどめったに無かった。この時点で勝負は決したと私は思った。体格が一回りも大きいトンプソンをひっくり返す体力が幾度となく打撃を食らった藤田には残っているはずもなかったからだ。

 しかし藤田は返した。そして勝った。立ち上がったトンプソンの顎に入った藤田の拳、拳、拳。最後に立っていたのは藤田だった。それを見て私は感動した。涙目になった。藤田はトンプソンに勝ったと同時に倒れそうになる自分に勝ったのだ。

 格闘技を嫌う人はまだまだいると思う。確かに戦わなければならない理由が無いのに殴り合い痛い思いをするのは馬鹿げている事かもしれない。しかし、藤田のこの勝利絵の執念を誰も馬鹿にすることはできない。今の日本人にこんなにも勝ちにこだわる男の中の男、女の中の女が何人いるだろう。

 日本人は世界各国に比べあきらめがちな印象が強い。ハングリー精神にかけているのだ。経済的に豊かなせいもあるかもしれない、しかし今のあきらめがちな日本に本当の豊かさはあるのだろうか?

 藤田のような強い男に私もなりたいと思った。

 最近になって私の友人が、第二次世界大戦など近代史に興味を持ち始め、よくインターネットで戦争のことを調べている。確かに私も近代史のあたりからはかなり最近のことであるにも関わらずあやふやにしかわかっていない。

 私は学生の頃数学などの理数科目を得意としていて歴史はあまり得意ではなかった。小学生の頃はそうでもなかったが、中学生になって二度目の日本史を習ったとき、小学校の終わりであやふやになっていた近代史をここでもあやふやなままに授業を終わらされてしまったことが歴史に対しての不信感を生み、得意ではなくなってしまった原因といえるだろう。よく歴史のテストができる人に

「歴史があるから、今があるんだ。お前(私のこと)は歴史が嫌いだとか言っているが、今の自分がどうしてこのような生活をしているのか知りたいと思うのは人間として当然のこと、だから歴史が好きじゃないのはおかしい。」

 あなた方は1850年以降の世界の歴史はおろか日本の歴史でさえ上手く説明できないではないか。今の私たちがここにこうしていられるの直接の原因は、あなた方が興味を持っている中世の歴史ではなく、1850年以降の経済と戦争なのだ。戦争が無ければ今の私たちはいまだに天皇のことを神だと思い、戦後の高度経済成長が無ければ、バブルも無く、不景気に泣く事も無く、パソコンや携帯電話はおろか、テレビもなかったのではないのか?いや、あったとしてもそれら全てを小型化してきたのはほぼ日本の技術のおかげであって、なぜ日本が敗戦をしながら日本という国をまもってこれたのかがわからないままほっといている方々は小さくなった携帯電話を使いながら私に上にある青い部分の台詞を言ってのける権利があるのだろうか!

 確かに近代史の歴史の真実は闇の底に埋もれているものもあるかもしれない。だが闇の底に隠されてしまった真実など、歴史をさかのぼればさかのぼるほどあるはずだ。だから私は近代史の不透明な部分がわかる前にそれ以前の歴史を学ぶ人間はおろかではないかと思う。時の流れとは一直線上のものにある。現在から過去を振り返るときにその一番最初にある近代史が不透明なままではそれ以降にある中世、ましてや古代の歴史なんてあやふやすぎて、真実なぞ見ることなど不可能に等しい。事実、私が学生の頃に教科書に載っていたことが、現在の教科書ではまったく変わっていることがある。

 日本を正当化して近代史の教科書を作れば国際批判を受けることは間違いないし、まだ十代の人間に日本の汚い部分をさらけ出してしまえば愛国心が薄らいでしまう危険もあるのもわかる。しかしながら日本政府はあった事実は事実として、全国民に今まで日本がやってきたことを教える義務があるのではないだろうか。

 歴史をあいまいにするということが、日本人の日本に対する関心を薄めていると私は思うのだ。

 もっと言えば、日本人の愛国心、もとい投票率の低さは近代史の曖昧さにある!