この頃の私の、X(旧ツイッター)のつぶやきは
 
夢見ることについてばかりだ。
 
私は、夢を見られるようになるために
 
精神分析に行っているのだと思うようになった。
 
それは全くの想定外だった。
 
 
夢には、
 
夢見られていない夢と
 
夢見られている夢がある。
 
前者は、単なる排泄のための夢で
 
後者は、生きている夢です。
 
 
私の精神分析のセラピーが
 
300回目くらいになりますが
 
1年半が経ちますが
 
最初の一年ぐらいは
 
あんまり夢をみれなかったです。
 
ここで言う夢とは
 
単に寝てるときに見ている夢とは違う。
 
夜に夢は見るけど
 
それは
 
夢見られていない夢だった。
 
 
私は、夢日記をつけるようになって
 
夢の内容が
 
寝ているときと、起きているときと
 
続くようになってきました。
 
夢見られている夢らしき夢を見たとき
 
それはすぐれた芸術作品に
 
触れたときの体験と似ている。
 
私は、3年前
 
秋田県立美術館で
 
戸嶋靖昌さんの(裸―Ra―)を目撃し
 
その場に動けなくなって
 
立ち尽くし
 
しゃがみ込んでしまったのです。
 
そして、閉館時間まで
 
まどろみ佇むしかなかった。
 
すると、一枚の絵が
 
境界がなくなり風景が現れ
 
隣の絵と混じり合い
 
美術館ごと私も含めて
 
ひとつの作品になったように感じた。
 
それは、美しい体験でしたが
 
夢見られている夢らしき夢を見たときと
 
その体験は似ている。
 
そして、そのような夢は
 
畏怖の念を抱きます。
 
 
セラピーのセッションで、
 
夢の世界にいると思うことがある。
 
夢の世界にいる私のことを見てる先生がいるから、
 
夢の世界からこの世に戻って、
 
今日はこの辺でってお家に帰る。
 
今日の夢の世界の私は、
 
自分の内側の中の私だったんだってなる。
 
そしてまた明日もあるねってなって、
 
明日も夢の世界にいる。
 
それは、自分固有の物語から
 
幾分自由になる瞬間だ。
 
内的に自由になればなるほど、
 
外的な不自由が苦痛になってくる。
 
精神分析はしんどくて
 
苦痛を体験することが増える。
 
セラピー受ける前は解離も苦痛も減って
 
楽になると思ってたんですけど、違った。
 
 
えーまさかなんてこった。しんどい。
 
しんどいって言葉で言えるようにはなった。
 
苦痛と直面し内的に自由になってくると、
 
こころの中の器が広がってるように思う。
 
自分の運命を愛して、
 
自分の人生にすべて体当たりしてたら、
 
まぢ本気の先生が目の前に現れた。
 
安全にあの世の夢の世界に行けるんだけど、
 
死のラインにも触れる。
 
先生との精神分析は死に物狂い。
 
物質にしか頼れなかった私が、
 
ひとりの人間の先生に頼って
 
先生依存症で、先生にしか興味関心がない
 
ってくらいにオズモシスする経験は、
 
今後はなかなかできないだろうな。
 
一生に一回ぽっきりだろう。
 
だから分離の不安が
 
雪だるまをコロコロするみたいに膨れてくる。
 
自分は分離した個になる。
 
夢から覚めて個性化したいな。
 
わけのわからないことが社会で起きると、
 
分離がダメで統合だとか、
 
耳障りの良いことが流行る。
 
分離個体が伴わない統合は似非の統合で、
 
それは融合で融合を強化するとか、
 
流行りの統合はほとんど
 
自己愛が強くなって、
 
意識高い系とかイケてますとか、
 
ワンネスとかいうやつも
 
金ピカの鍍金でしかない。
 
中身がないので
 
いつかポキっと折れるだろう。
 
それは、夢見られていない夢なのだ。
 
統合と融合の違いがわからないときは
 
妄想と夢の違いもわからない。
 
融合状態だから、分離は悪いと空想し
 
統合という覚めない妄想をみるのです。
 
 
妄想はたやすく変形できない。
 
妄想は覚められないんです。
 
 
夢は変形できる。
 
夢は覚めるのだよ。
 
覚めることができるのだ。
 
朝起きたとき
 
あぁあれは夢だったんだと。
 
私は、セラピーで
 
夢見られるようになった。
 
 

 

こちらの指輪ちゃんたちは

 

前回のブログで

 

セラピーのお部屋から生まれてきた

 

創造物です。

 

オパールちゃんは

 

生きる希望という意味が

 

込められていました。

 

それについては

 

また今度ラブラブ

 

ラブラブラブよっちゃん