この度も、ブログが3ヶ月ぶりになりました。

 

私には、3ヶ月の感覚で

 

言語化する時が来るようです。

 

 

この100日くらいの間

 

何をしていたかというと

 

自分の新しいドラマがスタートしたな〜って

 

なったと同時に、新しい指輪を買ったんです。

 

ボルダーオパールちゃんです。

 

買うつもりなんてなかっのに

 

出会ってしまったのですから

 

運命に体当りするしかありません。

 

七色の遊色のボルダーオパールは

 

今の精神分析のお部屋のイメージが

 

そのまんま表されていて

 

見る角度により

 

出る色が違うし

 

見たい色しか見ていないし

 

投影の移行対象としてオパールなのかなと思い

 

まぁそれも遊び心が芽生えてきていて

 

子どもの心が創造性くすぐるオパールを

 

欲しがっていると思ったのです。

 

買ってから一週間つけてみて

 

サイズが少し大きいので

 

サイズ直しに出そうと思ったとき

 

 

 

あ、そうだ!使わずに

 

ほったらかしにしてある指輪があるんだ!

 

それは唯一わたしの味方になってくれた

 

マダムから譲られた

 

ビルマ産のルビーの指輪でした。

 

そのマダムは去年亡くなったと

 

ちょうどこの時お友達から聞いたのです。

 

オパールの指輪を買うときに

 

なぜか隣りにあった

 

ルビーの指輪も気になって

 

すごく覚えていたのでした。

 

 

 

 

 

マダムからもらった

 

ビルマ産のルビーの指輪は

 

 

デザインも昭和だし

 

サイズもブカブカだし

 

 

思い切って、オパールを買った

 

ジュエリーのデザイナーさんに

 

リメイクできないかと聞いたら

 

だいたいリメイクは断られるのですが

 

そのデザイナーさんは

 

引き受けてくれたのです。

 

 

なぜならば

 

そのルビーは非加熱ルビーで

 

今では貴重な宝石だったから。

 

 

調子に乗ったわたしは

 

あ!そうだ!

 

ずっと使わずにいた16年前に買った

 

ダイアモンドの指輪もある!

 

 

そちらも引き受けてくれたのです。

 

 

 

なんだかよくわかりませんが

 

身につける古いものたちを

 

新しくリノベーションしていました。

 

 

来週、

 

指輪が、3つ来ます。

 

 

「やることやったらあとは向こうから来るものを待つ」

 

というのが、わたしのスタイルです。

 

 

 

なんで?3つも?

 

 

わからないので

 

わからないところに

 

居続けてみました。

 

 

 

あああああ!!!!

 

 

一対一の

 

先生とわたしという

 

親密な関係から

 

次に移行するときなのかなと思いました。

 

 

先生とわたし、+なにかへ。

 

 

と思ったんです。

 

でも違っていました。

 

 

オパールは、セラピーのお部屋で

ルビーは、先生で

ダイアモンドは、わたし

 

という象徴でした。

 

 

 

今までは

 

セラピーのお部屋という環境の中に

 

先生とわたしが

 

ひとつの渾然一体になっていたのが

 

 

お部屋が安全基地になり

 

わたしはひとりでも居られるように

 

知らないうちになっていたのでした。

 

 

安全基地ができて、私は先生から離れて

 

赤ちゃんハイハイで森の中に

 

世界への浮気を始めていたのです。

 

 

これは

 

マーガレット・マーラーの

 

赤ちゃんのハイハイはお母さんから離れて

 

世界と浮気をして楽しんでいるという

 

分離個体化モデル。

 

 

私は先生と違うっていう意識が芽生え

 

今まで渾然体でひとつだったのに、

 

先生と私が別々な存在なんだっていうふうに、

 

分離分化がどんどん進んで

 

別な存在だってなると

 

襲ってきたのは不安でした。

 

 

この100日くらいの間

 

何をしていたかというと

 

不安や痛みや事実を

 

受け入れていけばいくほど、

 

私は私だっていう中核的な

 

自己感が生まれてきて

 

個体化が進んでいって私らしくなってくる。

 

自分が自分になっていくっていう感覚が

 

それによって増えていくんだけど、

 

そうするとイコール万能感が

 

喪失され幻滅するっていう、

 

抑うつを体験しなくちゃいけない。

 

 

ちょうどこの頃に

 

セクシー田中さんの原作者の

 

悲しい出来事があり

 

肉体は確実に死ぬんだなと確信を得て

 

 

そこのところをどうやって生き残るかって、

 

もうそれは本当に悲しくて寂しくて、

 

私は悲しみの中から生まれてきたんだとか。

 

生きるって悲しいねとか。喪の哀悼。

 

辛い道なんだけど、それは健康的な抑うつで、

 

悲哀とか哀愁とか、そういうことを含めた

 

四季折々を楽しめるようになる。

 

 

私の今はその辺り。

 

 

身体がこれ私だって、体がわかれるその時に

 

色んな知覚を見えるものとか聞こえるものとか

 

触るものを自分の知覚に気づいて楽しむ。

 

これは体が、離れてわかれるっていう

 

ところから始まる、

 

赤ちゃんから乳幼児期にかける

 

傷つきの大きな要素なのです。

 

 

わたしの出生の出発点に

 

大きな影を落としているのは

 

愛の不在です

 

 

心の拠り所になるはずなのに

 

それが不在なのですから

 

 

くっつくこともできないのだから

離れることもできなかったんだなと

 

 

わたしは

 

くっつくという親密な関係に

 

なれる対象を

 

ずっと探していたのです。

 

 

心の中で離れてないなら、

 

無理に離しても、

 

別の代替品へ依存症するだけだから、

 

くっつく融合の渾然体が

 

本当の自己の、出発点になる。

 

 

この出発点に立ってみると

 

そこから見えるのは

 

あらゆるこの世のものは

 

おっぱいの(愛)の代替品でした。

 

 

おっぱいがいっぱいだ!って

 

夢見て錯覚をみてから

 

錯覚から覚めるときに、

 

おっぱいの不在

 

愛の不在の痛みを感じるのでした。

 

 

おっぱいと離れて心理的に

 

私が誕生するのでした。

 

 

 

これは想像を絶する苦痛でした。

 

これは、洒落た言い方でいうと

 

脱錯覚という。

 

 

おっぱいっていうのは

 

赤ちゃんが一番最初に出会う

 

愛なのです。

 

でもそれは、錯覚なのです。

 

おっぱいから離れる時

 

それが、一番はじめの

 

傷つきなのです。

 

 

わたしは、先生との

 

親密な関係の渾然一体で経験した

 

多幸感や酩酊感、万能感は

 

それは本当にヤバかったし

 

キマってた。

 

夢見と無力感が本当によかった。

 

 

だけど、そこから離れるときの

 

幻滅と脱錯覚は

 

本当につらくて痛くて

 

驚愕体験なんですよ。

 

でも、わたしは

 

心理学知らなかったら

 

こういう幻滅にきちんと向き合って

 

耐えるっていうことの貴重さ

 

大切さと、一生知らないで

 

死んでいったと思う。

 

この作業と向き合えるように

 

なれただけでも

 

精神分析のセラピーを学んで

 

本当によかったなと思います。

 

 

自分を知るというのは

 

本当に気づくというのは

 

心底つらいものですね。

 

 

 

 

ラブラブラブよっちゃん