今夜は満月です。

 

 

満月にブログを書く蠍座の女です。

 

 

6月は映画を見に毎週行きました。

 

「 生きる LIVING 」と

 

「 水は海に向かって流れる 」と。

 

この2つの映画を見て

 

私は、ある同じことを喚起されました。

 

両方とも、心の中の時計が

 

子どもの時分に止まってしまっていることと

 

その時間が動き出すきっかけが

 

自分よりも若くてピチピチしている

 

今を生きている他者がいる環境に

 

もう一度、触れることで

 

時が再び動き出す。ってことです。

 

 

心の中の時計が止まっているのは

 

感情や情緒が凍結保存されていて

 

心が壊れて病んでいて

 

精神病の状態なんですけど

 

どうしても個人っていうのは

 

そう思いたくないんですよ。

 

 

どうしてかって言ったら

 

自分が弱くておかしくてって

 

自分になにか原因や問題があると

 

思い込んでいるし

 

思わされているから。

 

 

実は、心が壊れるのって

 

環境の失敗で

 

環境の側の適応の失敗によって

 

その結果、偽りの自己が発達すると

 

小児科医で精神分析家の

 

ウィニコット先生は書いているんです。

 

 

時計を本当の自己として置き換えると

 

わかりやすいですね

 

 

時計(本当の自己)が動かなくなる前に

 

電池交換するとか

 

ネジを回すとか

 

誰かがお世話をすると壊れない

 

けれど、誰かいても

 

お世話することができなかったり

 

環境の側の失敗によって

 

偽りの自己が発達して、その失敗状況を

 

凍結することで防衛する。

 

なかったことにして忘れる。

 

そうした防衛ができること自体は

 

正常かつ健康的なんです。

 

でも、偽りの自己は、そのあとに

 

世話役の自己になるんです。

 

自分が壊したわけじゃないのに

 

偽物の自分が本物の自分を

 

守ろうとしたり

 

いろいろするわけです。

 

世話役の自己って偽物の自己だから

 

不毛で非現実です。

 

いったい、何人偽りの自己が

 

いるんだろうってくらい

 

いっぱいいるし

 

マインドのゲームも演じ続けるし

 

 

だから、その

 

偽物の自分に対しては

 

何をやってもなんにもならないんです

 

 

孤独のひとりぼっちだから

 

ロンリネスでさみしく

 

人恋しくなる

 

 

偽りの自己って孤独で

 

他者の不在だから

 

要するに、本物の自分がいないってことです。

 

空っぽの、空。

 

 

 

環境っていうのは

 

時間は「 今」で

 

場所は「 ここ 」です

 

そして

 

他者は「 愛 」で

 

愛っていうのは

 

「 共にいること 」だから

 

環境っていうのは

 

 

 

今ここに共に生きる場です

 

 

そうやって個人は存在できて

 

誰かといながらひとりでいるという

 

独りであることができる

 

 

 

映画を見ながら私は

 

今の自分がやっていることが

 

この物語そのものだなと

 

週に4回、精神分析に行って

 

7月で、1年が経って

 

この環境の失敗状況が解凍されて

 

その失敗に関連する怒りが感じられて

 

怒りが表に出てくる

 

それはさまざまな情緒にも繋がっていて

 

なんの感情の涙かもわからない涙を

 

この1年間流し続けました。

 

 

先生と私という

 

一対一の濃密な新しい環境が

 

偽りの自己を抱えて包み込み

 

本当の自己が、環境の失敗状況と

 

出会うことができるようになって

 

止まってしまった時間から脱却され

 

本来のニーズや願望が

 

真に正しい、生きる気力や活力を

 

伴うことになる。

 

 

なので

 

「してあげる」驕りも

 

「してもらう」切なさもない

 

つまりは

 

「もらってしまう」こともないのである。

 

 

 

私には、良い対象となる他者が

 

いなかったから。

 

良い他者が不在だったのです。

 

ぶっ壊す悪い対象は

 

いやっちゅうほどいましたけどね。

 

だから良いものが来ても

 

どうしていいのかわからないし

 

その悪い対象の中に

 

良いものがあるのではないかと

 

ずっと悪い中で探すんですけど

 

 

 

良いも悪いもおなじところにあるんだけど

 

不在だから

 

ないもんはないんですよね。

 

 

愛されても、その愛を素直に

 

受け取る器の環境がないのだから

 

絶望するしかなかったのです。

 

 

 

良い対象の他者が不在な私には

 

守ってくれる他者もいないわけなので

 

これまで、その対象のかわりになるもの

 

神とかお守りとか大いなる存在とか

 

そういうのを当てがるように支援する

 

セラピストでいっぱいだったんですけど

 

その人達も偽りの自己なんだなと思うと

 

偽りの自己って、生きてないから

 

自分で考えることもできないから

 

危うく、もらってしまうんだろうなと。

 

 

 

だけど

 

偽りの自己のまま

 

共に生きることもできずに

 

死んでいくことも

 

別にいいんじゃないのかなと今は思う。

 

 

 

私はそれはやりたいことではないので

 

運命に体当たりして

 

生命を燃やして生きるをやるのみ。

 

 

 

 

 

 

よっちゃん音譜