あとがき

 

一昨年の3月、待ちに待った定年退職の日を迎えた私は、

さっそく三十年以上も中断していた古代の天皇陵に代表される

古墳巡りを再開させることにした。

4月の山の辺の道を皮切りに、

明日香、佐紀、百舌鳥、古市、三島藍野、吉備、群馬、埼玉と歩き、

次はどこに行こうかと思案していた矢先に、

ふと見た古墳を紹介するユーチューブの動画で、

初めて飯豊天皇の存在を知ったのである。

若い頃より古代史に興味があり、

それなりに多くの本を読んできたつもりであったが、

仁賢、顕宗天皇の逸話の陰に、このような女帝が存在していたということを、

私は迂闊にも全く知らなかった。その反動ともいうべきか、

この時から俄然、彼女に対する興味が湧き始め、

10月に入り、私は初めて葛城は忍海の地を訪れるに至ったのである。

ちょうど稲刈りも終わり、清々しい青空の下を飯豊天皇の埴口丘の陵から角刺神社、

葛城市歴史博物館へと歩いた。そして博物館を出る頃には、

是非とも彼女の生涯を文字に綴ってみようと心に決めていたのである。

東京に戻り、私は記紀をはじめ関連書籍を読み返すとともに、

ユーチューブにアップされていた「飯豊女王ものがたり」と

葛城市歴史博物館特任館長の千賀久先生による市民講座

「飯豊皇女と忍海を語る」を繰り返し視聴し、

基本的な彼女の実像を構築しようとした。

したがって拙作のバックボーンにはこの2本の動画があるといっても過言ではない。

とはいえ、やはり彼女に関する情報は非常に乏しく、

否が応でも想像力を逞しくせざるを得なかったのであるが、

ある意味では、ここにかなり大胆な仮説(珍説)を取り入れることが出来た。

その代表的な例が仏教である。言うまでもなく、その伝来は、

この小説に描かれた時代からさらに数十年後のこととなるのであるが、

拙作では、渡来人の間ではすでに仏教が信仰されており、

彼らが多く住んでいた忍海の地にいた飯豊も、その影響を受けていたと考え、

それをもって飯豊を巫女的存在と言わしめたとしたのである。

そしてもうひとつは、角刺宮の名称である。

私はこの宮が百済様式で建てられたのではと推理し、

当時まだ我が国にはなかった鮪尾を見て、

それを角と言ったのではないかと考えたのである。

そして、それまでとは異なった反り返った屋根をもつ建築様式であったからこそ、

大和中の噂となったのではあるまいか。

そのほかにも史学、考古学において全くの門外漢であるが故に許された?

私の勝手な妄想が随所にちりばめられている。

ともあれ、古墳時代後期という、

これまでなかなか描かれることのなかった時代に足を踏み入れ、

当時の葛城の風景を想像しながら、

歴史書に名を連ねるだけの人物を自在に操ることが出来たことは文字通り、

望外の楽しみであった。

 拙作は、時代考証も十分出来ないまま、3か月ほどで書き上げたものであり、

奇想天外ととられる点も多々あろうかとは思うが、

この5世紀中頃の倭国の雰囲気を少しでも味わっていただければ幸いである。

                           

                                   令和5年1月吉日