蟻も亡くなり、かつての葛城一族の栄華は
もはや跡形も残っていません。
そのようななか、亜麻那味は
忍海の民の感謝の意をこめて、飯豊に
壮大なプレゼントを用意しようとしています。
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蟻はすでにこの世を去っていたが、忍海には穏やかな日々が流れていた。
その間、稚武は積極果敢に倭国の勢力範囲を広げ、
東は武藏、西は肥の国に至るまでを制覇するに至っていた。
今ではこの忍海造(みやつこ)となった佐多理が、時折飯豊のもとを訪れ、
稚武大王を取り巻く動きなどを知らせてくれる。
もっとも、飯豊の関心はもはやまつりごとにはなく、
ただひたすらに忍海の民と触れ合いながらも、
亜麻那味とともに祈りの日々を送ることにあった。
(荒れるにまかせたひめみこのお館を是非、新たに我々の手で!)
忍海の人々にこういった想いが湧きあがったのは至極当然のことであった。
亜麻那味はひそかに葛城に分散する百済系の才伎に声がけし、
その準備を進めている。この倭国に移住してきた移民の中には、
建築に長けた者も大勢いたのである。
「すべての忍海の民は、ますますひめみこをお慕い申し上げております。
たとえ、どれだけ鍛冶工房の品々を大王のもとにお届けしようとも、
この忍海をお守り下さる方は、ひめみこをおいてほかにはおりません」
亜麻那味の言葉に飯豊は涙するしかなかった。
そして亡き父の言葉を今ほど、痛感することはなかったのである。
この忍海の地を守れという・・・。
稚武大王(雄略天皇)、初瀬朝倉宮址(奈良県桜井市)
ちなみに「天皇」の呼称が使われるようになったのは、
7世紀に入ってから。当然、皇子や皇女という言葉も
飯豊の時代にはありませんでした。