飯豊は葛城の地では西にそびえる山々に阻まれ、
夕陽を見ることが出来ませんでしたが、
この日初めて大海原と百済からの大きな船を見ることになります。
しかし彼女の驚きはこればかりではありませんでした。
4-8
いつもは葛城の山々に隠れて見ることのできない今にも沈もうとする夕陽、
そして黄金色に染まる海原は、これまでに見たどのような景色にも優るものであり、
その美しさに飯豊は思わず声を上げたほどだ。
「忍海にいるだけでは、この世の中のことは何もわからない・・・」
「そうだ、飯豊よ。この旅で多くのことを学ぶのだ。
明日はさらに驚くべき光景を目にするであろう。
それを楽しみに今宵はゆっくりと休むがよい」
押磐の言葉に飯豊は大きく頷き、
二人の王を呼び寄せて共に落日の荘厳も見つめるのだった。
やがて船は若ノ浦の泊(とまり)に到着し、
一行は海を見下ろす高台に設けられた紀一族の館に入った。
眼下には残照のなか、百済から来たのか、
見たこともないような大きな船が二艘停泊しているのが見えた。
翌朝、やや大きめの船に乗り換え、陸づたいに北上すること半日あまり、
船頭の「おお、見えてきましたぞ」の声に飯豊がその方を見ると、
まさに目を疑うような光景が飛び込んできたのである。
「あれが我が祖父(仁徳天皇)と父(履中天皇)の墓だ!」
押磐は誇らしげに叫んだ。
高台の上に聳える二つの陽の光を浴びて白銀に輝く墳墓、
しかもそれらは襲津彦の墓とは比べようもないほどの大きさと高さである。
「韓の国から来る者は、皆この光景を見て倭国の大王の偉大さに怖れを抱くのだ」
「あの山のようなお墓を作るのに、一体どれだけの時と人夫が必要だったのでしょう」
飯豊はこの世のものとは思えない巨大なモニュメントに呆然とするばかりである。
「飯豊よ、二人の息子たちよ。この光景をしっかりと目に焼き付けておくのだ。
そなたたちには、この大王家の血が流れているということを、
決して忘れてはならぬ。そしてその大王家を守ってきたのが、
まさに葛城の一族であったということも」
この押磐の言葉が間もなく、
深い意味をもって押磐自身と葛城の一族に降りかかることを、
十六歳の飯豊は知る由もなかった。
押磐一行はこののち、住吉の津から難波の屯倉が用意した官馬に分乗し、
二日をかけて大和に戻った。
第4章終わり
仁徳陵と履中陵 百舌鳥古墳群です!(松山-伊丹便から)
当時の百舌鳥古墳群想像図。
当時の大阪湾周辺 現在の大阪中心部は河内湖の底でした。
海岸線は現在よりはるかに墳墓の近くだったようです。
また古墳群のある位置はかなりの海抜もあったため、
沖合から見える壮大な墳墓の姿に朝鮮からの来訪者は
さぞや度肝を抜かれたことでしょう。
世界最大面積の仁徳陵、最近の調査で全長がさらに伸びる可能性
が出て来たそうです。仁徳は押磐の祖父、そして履中は父でした。
さて、次回から飯豊は歴史の大きな渦の中に
巻き込まれていくことになります。