神功皇后陵からひたすら東に向かって歩きます。

湿度は低かったものの、結構な暑さで水を被りながらの行軍でした。

 

往路の飛行機からみた佐紀盾列古墳群と平城宮址。

 

まさにぴったり左端の神功皇后陵から右端のコナベ古墳まで歩いたことになります。

(ウワナベ古墳は時間切れで断念)。それを予期したかのようにワナベ古墳は

かすかに周壕が写っているのみ(笑)

 

まずは宝來山古墳 成務天皇陵に治定されています。

 

前方部正面の拝所。

 

高札は修理中とかではずされていました。

 

ちなみに盾列は「たたなみ」と読みます。

 

古墳のスペックは以下の通りです。

 

墳丘長 218m 墳丘高 16m 後円部径 132m

前方後円墳で築造は4世紀末 

被葬者は第13代 成務天皇

 

成務天皇は景行天皇の第四皇子。日本武尊とは異母兄弟です。

名は稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)。

日本書記に妃、子の記録はありません。

事蹟として行政区域を定め、国造(くにのみやつこ)も

この時代に制定されたといいます。初めて大臣(おおおみ)

を置いたのもこの時代とされますが(建内宿禰)、

例の進歩系の歴史学者はその存在に否定的です。

 

宮は何故か志賀高穴穂宮(現在の大津市)。

これは先代の景行天皇の行宮とされているのですが、

当時の大王(天皇)はまだ国家統一のために動き回っていた

ことと関係しているのではとの説と

景行ー成務ー仲哀の3代を近江王朝とする説などがあります。

しかし御陵がこの大和にある以上、別系統の王朝ではないと思います。

 

さて、この成務陵に文字通りアリの門渡りほどの間隔で隣接しているのが、

午前中に訪れた垂仁天皇の2番目の皇后、陵山古墳≠日葉酢媛陵。

 

これが2つの御陵の間にある道

 

こちらも大きな前方後円墳です。

 

日葉酢媛は成務天皇の祖母にあたります。

 

お決まりの高札

 

なぜか佐紀盾列古墳群の被葬者には女性が多い

 

さて古墳のスペックですが、

 

墳丘長207m 後円部径 131m 後円部高 20m

4世紀末の築造で埴輪が出土しています。

もちろん陵墓ですので詳細な調査はされていませんが、盗掘の実態調査の際、

かなり細部にわたる主体部の様子が記録されているそうです。

 

手前が日葉酢媛陵で奥が成務陵

 

ちなみに日葉酢媛は丹波の出身だそうです。

例の田道間守が常世の国から持ち帰った橘の実を食べて長生きしたとの話もあります。

 

さて、すぐそばに称徳天皇陵もあるのですが、この話はまた次回に。

 

左が成務天皇陵で右が日葉酢媛陵。その下が称徳陵なのですが・・・。