どこからどこまでが自分なのか?
諸法無我、私というのは実は私じゃない・・・
「ミリンダ王の問い」という話があります。
これは、原始仏典の一つで、
紀元前2世紀後半ごろにできた経典です。
日本語訳では、「弥蘭陀王問経」と表されています。
この中の話で、「わたし」について、
何を私としたら良いのかという問答が記載されています。
これは、インド・グリーク朝の王であるメナンドロス1世と、
ナーガセーナという長老のやりとりの中にあります。
メナンドロス1世が、ナーガセーナに対して、
始めに名は何かと問いかけました。
そうすると、ナーガセーナは、
「私は、ナーガセーナと呼ばれているけれど、
ナーガセーナという人物は存在しない。と答えました。
メナンドロス王が、その理由を問いました。
そうすると、ナーガセーナは、
「ナーガセーナという名前は、単に、呼び名であって、
それに対応する存在はいない。」と答えました。
つまり、皆がナーガセーナと呼んでいる対象は、
その体でもなく、筋肉でもなく、骨でもなく、血液でもなく、
筋肉でもなく、細胞でもなく、、、、というように、
そのどれにも当てはまるものではない。という意味の言葉を説明しました。
すこし、補足して説明してみます。
ナーガセーナという「私」は、
どこかのだれかと比べて、歳をとっていて、
どこどこという場所に住んでいて、
どこかのだれかと比べて、物知りで、、、
というように、私たちがだれとも言えないものと
それぞれ比較して、ぼんやりと出来ているものです。
したがって、その人そのものは、
”その単一で存在できるもの”ではない。
というような主旨の話をしました。
つまりは、ナーガセーナという実体はいないのです。
これは、仏教の根本的な教えである
三宝印にある「諸法無我」の概念をよく似ています。
諸法無我は、「全てのものは、
因縁によって生じたものであって、
実体性がない」という意味の言葉です。
(フリー百科事典『Wikipedia(ウィキペディア)』より)
人は、私はこういう人間だ。
こうじゃなきゃ私じゃない。
のように、自分のこだわり価値観があります。
これが上手く作用しているときは良いのですが、
何かの拍子に、自分を悩ます原因にもなります。
ナーガセーナのように、
私という概念の取ら方を変えてみると
自分と付き合い方を変えることができます。
そうすれば、必要のない執着を捨てることができ、
さらに、新しい自分を見つけることができます。