執着を手放し、感情を解放するには!?

有為転変と諸行無常の共通点は・・・

 

 

今の世の中は、先行きが分かりづらく、

刻々と状況が変わっています。

仏教の言葉の中に、「有為転変」という言葉があります。

 

 

この有為転変の意味は、

「この世の全ての存在や現象は、

さまざまな原因や条件によって常に移り変わるものであり、

少しの間も止まっていないこと」

(三省堂新明解四字熟語辞典より)だそうです。

「有為転変は世の習い」のような使い方をします。

 

 

また、これと、似たような言葉に、

諸行無常という言葉があります。

こちらは、「世の中のものは、すべて移り変わり、

また生まれては消滅する運命を繰り返し、

永遠に変わらないものはないということ」を指し示しています。

 

 

この「諸行無常」という教えは、

仏教の根本的な思想である、

三宝印という三つの教えのうちの一つです。

 

 

ここで、日本古典三大随筆に数えられる

鴨長明の「方丈記」の冒頭文を次に紹介します。

「行く川のながれは、絶えずして、しかも元のみずにはあらず・・・」です。

これは、ものごとのはかなさ、無常を表しているそうです。

 

 

この方丈記が書かれた時代には、

火災や竜巻、大地震などの天災が続いています。

ですので、世の中には、先行きに不安を感じる人も多かったようです。

今の世の中の状況と、少し似ているところがあるかもしれません。

 

 

先ほどの、方丈記の冒頭にある「行く川の流れは・・・」という一節について、

再度、振り返ってみます。

川というのは、毎日同じように流れています。

しかし、その水は絶えず入れ替わっており、

絶えず新しい水が入れ替わることで、その川の流れを作っています。

川という概念自体が曖昧なものなのです。

 

 

人も同じように、外見は同じように見えても、

内部は刻々と変化しています。

人の細胞は日々生まれ変わり、もとの細胞に死に向かいます。

ですので、外見は同じように見えても、

その構成しているものは、新陳代謝をして入れ替わっています。

 

 

もっと視点を広げてみれば、

社会というものも、同じように見えて、

中で暮らしている人々は入れ替わっています。

 

 

実際、社会というのも、

その物自体が存在しているわけではなく、

その人が感じる感覚の中にあるものです。

 

 

仏教では、私たちの執着を手放すことにも、

目的を置いています。

私たちは、実際に存在しないものにも、

執着を持ってしまいます。

 

 

私たちは、過去の記憶から、

悩み、苦しみなどを感じているように思いますが、

実は、実際には存在しないものです。

悩み、苦しみはそれ自体では、存在ができないものです。

痛みや苦しみは、あるように見えて実際にはなく、

私たちの感覚の中にあるものです。

そのような考え方をすることによって、

執着を手放すことが行いやすくなります。

 

 

三法印や、縁起の考え方は、セットのようなものなのです。

一つ一つみていくと、とても難解です。

しかし、合わせて横断的に見ていけば、

お互いに支え合っている考え方がと気付きます。