諸法無我、「全てのものごとは自己ならざるものである。」

つまり、私たちがいつも感じている、

自分という意識、自己や自意識といったものは、

突き詰めて考えると、”実体がないもの”であり、

”我”というのものは、実際には存在しない。

という意味になります。

 

 

仏教の中でも、重要な教えに”三法印”があります。

これは、仏教において、根本的な理念を表す3つの用語です。

その中の一つが、「諸法無我(諸法非我)」です。

ネットで検索してみると、

あらゆる事物は現象として生成されているだけであり、

それ自体を根拠づける普遍的な本質は存在しない。

と、説明されています。

 

 

つまり、私たちがいつも感じている、

自分という意識、自己や自意識といったものは、

突き詰めて考えると、”実体がないもの”であり、

”我”というのものは、実際には存在しない。

という意味になります。

 

 

けれども、そんなことを言っても、

私たちは、いつも自分のことを意識しているし、

自分がどうしたいとか、どうして欲しいとか、

考えたり、感じたりしています。

 

 

ですので、これを理解するためには、

仏教でもう一つ重要な考え方が必要です。

それが、”縁起”という考え方です。

 

 

縁起というのは、「全ての現象は、原因や条件が

相互に関係しあって成立しているものであって、

独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば、

結果も自らなくなる。」とあります。

 

 

つまり、世の中のものは、

それ独自で成り立っているものではなく、

他のものとの関係性によって成り立っている。

という、意味合いのものになります。

 

 

したがって、自分というものも、

それ独自で成り立っているものではなくて、

他の者との関係性によって成り立っています。

 

 

例えば、自分のことを

”不器用な人間”だと感じている人がいるとします。

不器用な人というのは、単独では存在できません。

必ず、どこかの誰かと比べて、その「基準」が作られています。

私は(他の人に比べて)不器用な人間だ。

私は(普通の人よりも)不器用な人間だ。

のように、何か、比較対象するものが必ずいると思います。

実際にいないとしても、世間一般はこうだという

自分なりに作り上げた人物像がいるはずです。

 

 

このように、私たちは、

社会でいろんな人と関わり、

暮らしているうちに、様々な経験をして、

自分というものを作り上げていきます。

ですので、純粋に自分一人だけでは、

私という概念は存在できないのです。

必ず、他者との比較が入ります。

 

 

なので、私たちは、無意識のうちに、

誰かと比べてしまいながら、生きているということを、

気づくと自分の捉え方も変わってきます。

 

 

人間は進化のうちに、

高度な理性や思考を手に入れましたが、

同時に悩みや葛藤も手に入れたのかもしれません。