『この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。幕末、諸藩の脱藩浪士は、はちきれるような夢を尊皇攘夷と天皇政権の樹立に託しつつ天下を奔走した。しかし戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛しかない。」(三巻P429)
司馬遼太郎氏はそう褒めあげた後
「人情で、ついつい孤剣の光秀に憐憫がかかりすぎたのであろう。」
と述懐している。
斎藤道三は死んだ。
しかし彼の夢は娘婿信長と弟子光秀に継がれていった。
一人はおのが天下の為。
一人は将軍を復興させる為。
光秀は己の能力を買いながら、果たして信長の下につき、泥水を啜るような気持ちで先のように東西南北に奔走している。
一方主信長は
『常識ではない、といっても「非合理」という意味ではない。むしろ世間の常識、というもののほうが非合理なことが多い。たとえば神仏崇拝のことなどもそうである。見たこともない神仏を人間は信じ、畏れている。これが常識というものであった。しかし信長はそうではなかった。徹底的な合理主義と実証精神をもっていた。』(四巻P135)
そういう思想・主義で旧体制や各国をぶち壊し、時には窮地に陥りながら次第に統一を進めていった。
その中で光秀が言葉の通り“担いだ”足利将軍は京を逐われてついに幕府は破れ、光秀は転戦しこき使われながら信長のやり方に不満を感じ始める。
『人はわが身の生まれついた性分々々で芸をしてゆくしか仕方がございませぬ』(P466)
ある日秀吉と比べ己もあああるべきか、と悩む夫を妻はそう諭し、だから光秀は秀吉の真似をするものじゃない、すれば過誤を起こすだろう、と。
光秀は、真面目過ぎた。
陽気ではなかった。
文化的であり過ぎた。
だから、信長とは合わなかった。
『信長は批判力がするどく、人のあらを観察するぶんには微細なきずも見のがさず、それを指摘するときは骨を刺すようにむごく、ときに、批判が高じてくると家臣の数十年の過去を言いたてて切腹させたり追放したりする。それほど容赦ない男だが、ただ一つの盲点は家臣のほうからは自分を裏切らぬという信念を持っているらしいことであった。(P470)』
信長の不思議さであった。
そしてその不思議な男は、光秀の正義と不安の前に敗れた。
仏も運も信じなかった信長は、因果応報は信じていたらしい。おのれは正しいと信じてやまない信長が思ったかは分からないが、本能寺での変こそ因果応報であったろう。
私は光秀に近い、温故知新の精神が強いので、光秀に憐憫を覚える。この男をよむと、いつも切なくなる。
「こうでなければ」
と思う。
光秀の愛すべき所、彼の美徳は、織田政権では邪魔にしかならなかった。時代が彼を狂わせたのだろうと思う。
彼は聡明で、敏感で、優しく、そして小心だった。故に空前絶後の謀反を成功させ、またわずか10日ちょっとで倒された。
司馬氏はこの長編を通し、道三から二人の弟子の因果応報を示した。そしてきっと、また時代は巡っている。。
