昔、自己啓発に燃えて邁進していた時には、仕事に行く前は10分間読書で、論語新釈 宇野哲人 講談社学術文庫や中庸、これも宇野哲人 講談社学術文庫 大学 講談社学術文庫。

荘子 岩波文庫 老子等を読み、勤めていた会社の鬼キツイ建築資材の配送のドライバーの仕事を終え、帰宅、食事、風呂が済めば一日一冊の日課の読書に邁進していた。

人間、誠、愛、思いやり、真心が大切だろうとロウソクの火を消えない様に道心というものを温めながら、勉強していました。

しかし、一角の見識が生まれると自分の心境、得たある種の境地にがんじがらめに縛られ、いつしか高慢心や独善から、どうしても脱け出せなくなる。これは努力をしても、自分よりもすごい見解、見識、境地がある人とのめぐり逢いが無いとしばしば嵌る落とし穴。

こわい、こわい。

随分とまわり道をして、大本教との出会いがあり、神様の自動書記に近いという、天声社のおほもとしんゆ、霊界物語、信仰覚書といった一連の書物を読み込んでいくと、人間の限界、人間心の愛、思いやり、真心、一生懸命に頑張ったとしても、神様の至仁至愛といった、大きな流れに翻弄されて、ある種の馬鹿になってきました。人の出来る事の限界はひしひしと感じていましたが、おほもとのりとという祝詞の本に書かれている3大学則といったものが肌感覚で悟れない悩み。神様って太陽、お月様といった途轍もない大きな存在であり、只の惑星では無く、人格神として神仕組みといった、ものが連綿と宇宙の生成からなる様に大きいものらしく、神様は捉えどころのない、これと思った所には、最早存在せず、生き神様というのが、もっとも的確に表現できる存在らしい。さっぱり見当がつかないけれど。

神様は奥のそのまた奥の更に奥があり、一部宗教にいう様な安易に動いたり、簡単な神人合一等という事等、思いも及ばないのが真相らしいです。

なので、今は鈍物な自分が悟れるように、アプローチを試行錯誤、模索中。

そして、今は易学入門 安岡正篤 明徳出版社から出ている本を少しづつ勉強中。

岩波文庫で昔、読んだ時には、易は易占に使うもので、あまり大したことが書かれていないな。

と、思っていましたが、天の運行、天機、神様の働き方、人間が大きな流れの中で、いかに生きていけば良いのか。

身の処し方。心の置き方等、かなりすごいアプローチで書かれている事が少しづつ判ってきたような気がしないでもないw

この本の中で、身の処し方で、徹頭徹尾書かれているのは、誠というもの。新選組の旗印ですよね。口と心と行いが一貫されている事。真剣勝負の時の気迫、気合、身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれといった感じかな?

人間、どんなに頑張っても思う様に向上しないし、心の成長も、天の配材や、時期、時節といったものに恵まれないと芽吹かないのが情け容赦無い厳しさ。それを実感しています。人に何かをして、力になりたいと思っていても、人は人生の幸せを感じるポイントがバラバラだし、いちいち、生活に密着して手助けができる訳でもない。

人間の無力さを実感した今は、疎遠になった人や身近な人の幸せを神様に祈る事位しかできないのかな。

そして、更に易を学ぶために、びっくりするくらい高い本を教材として、さらに勉強したいです。

易経講話 全5巻 公田連太郎

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易経入門 安岡正篤 明徳出版社

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神道の教えの大きな指針が学べる本