嫌いも許せないも、こんがらがった状態のこと。

真実が見えなくてこんがらがった状態のこと。

理由を考えて、感じ、紐解いていけば、みんなきっと一本の糸になる。幹に繫がる。

地球上のネガティヴな全ての出来事は真実を突き詰めていけば一本に繫がるのだと思う。

 

 

どんな人からも、学びとることができる柔らかい心を持ちたい。

 

どんな経験であろうと、どんな悲惨な人生であろうと

神に持ち還る経験をしてるんだろうなあ…

でも、もう充分じゃない?

 

信仰心を持つと言うことはとても幸せな事だと思う。でもある意味

かたくなになる事でもあるのではないだろうか?

 

神がこの世を包括しているなら、責任と言うものがあるとしたら…

本当の責任は神にあるんじゃない?…

この考えも通過点…でしょうか?

傷つく者、傷つけられる者,誰が悪いわけではない。
私達はお互い不完全なるもの。傷つけたくなくても、きずつけられたくなくても、
どうしても知らぬ間のトゲとトゲが刺さりあい、傷つけ合うもの、少しでも傷を少なくしたいなら、誰のせいにもせず、自分の心を見つめ、深い真実に繋がる気ずきに出会って行こう。傷つくのは誰のせいでもない、自分自身の心の弱さ、無知から来るものと思うから
深い深い気ずきに出逢えたなら、きっときっと大いなるものに包まれていくから…。
自己中というけど、人間一人一人本来そんなちっぽけなレベルのものでなく、一人一人が宇宙の中心とも言える存在なのではないだろうか。
この身が中心であり、この身がレンズとなって外の世界を見て動き、この身が宇宙を認識している。
人それぞれの宇宙があり、個の宇宙は他の宇宙と重なり合い、繋がっている。なんと言っていいのか、パラレルワールドですか?
私は神秘体験をした事はないけど、この体験をした人は、殆んどの人が、自分が宇宙の中心だったと言っている。
私も神秘体験してみたい、自分が宇宙の中心なんだと言う壮大な感覚を味わってみたい。
親鸞聖人も「方便論的世界」と表現し、全世界の全ての出来事というのは、私に対する方便としてある。と言われている。
阿弥陀如来というのは、一人一人の人間を全て救うために、一人一人にひとつずつ世界を与えている…と安冨歩氏も述べている。
親というものは、子供に振り回されるものなんだよ……それでいい
親というものは、子供の要求を受け入れればいい……それでいい
(受け入れられない時はその理由を丁寧に説明する)

躾けようなんて思わなくていい、親はただ、子供にそうなってほしい姿、見本を見せればいい。
でも、それだけ責任が問われることだと思う、いかに生きるかが問われてくる
真剣に生きる姿、正直に生きる姿、純粋な姿をみせられたら……。

こんな親でごめーん!!   でもそれもあり!てか?
全ては肯定から始まる、否定からは何も始まらない…!
すごーく前向き!そのまんま受け止めてお互いに成長し合おう


躾を最小限必要な事として捉えるなら
躾とは人間の不完全さから必然的に生まれてきたものではないだろうか?
人間は完全ではないから…完璧な姿を子供に見せることができないから、その不足分躾が必要になってきたのだと思う。だから躾は必要最小限にとどめたいもの。
自分の子に躾の必要性をすごく感じるとしたら、親は自分の未熟さをまず責め、申し訳ないがしつけさせてくれというくらいの気持ちで接しなければならないんだと思う。