脳神経科学4
神経科学史3
18世紀19世紀

18世紀と19世紀において、
神経科学は、肉眼解剖、骨相学、
電気生理学、神経心理学などにおいて研究が行われていました。
今日は、これら初期の研究について説明します。

今日のお話しのメインは19世紀です。
その準備段階として、まず最初に、18世紀末までに、
どのようなことが解明されていたのかについて説明します。

18世紀末までには、
ガレノスの伝統を打破する研究の流れがつくられました。
ガレノスの伝統というのは、先日お話ししたように、
いわゆるプネウマ論のことです。
即ち、脳室内に満たされた液体が体中をまわることによって
さまざまな精神活動が営まれているという考え方です。
それを覆す研究結果が次々と登場するのが18世紀以降です。

1つは、脳組織が灰白質と白質からなり、
よって白質は灰白質へ情報を運んだり、
あるいはそこから情報を送り出すものがあるのではないか、
と考えられるようになりました。
2つ目は、肉眼解剖学によって、
体中にはりめぐらされた神経系の全体像が分かったことです。
また、その中で、脳にはたくさんの溝と回があることから、
それと機能に何らかの関係があるのではないかとも思われました。
3つ目は、1751年にフランクリンが著した
『Experiments and Observations on Electricity』です。
凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにし、
これが、電気現象理解のさきがけとなりました。
そして4つ目は、イタリアの科学者ガルバーニの研究です。
彼は、カエルの解剖で、カエルの筋に電気刺激をしたところ、
筋収縮が起こるということを発見し、
1791年に「筋肉の運動による電気の力について」
という論文を発表し、その現象を動物電気と呼びました。

このようにして18世紀には、
電気生理学の下地がつくられました。
次に、19世紀の神経科学史についてお話しします。

19世紀に行われた脳研究は、
以前お話しした研究方法で言うと、侵襲的方法で、
1つは、切除や電気刺激を中心とした動物実験、
もう1つは、事故等により脳損傷を受けた人間の患者の症例から
脳機能を推測する神経心理学です。
年代順に考察していきます。

1811年、ベルとマジャンディは、
末梢神経と脊髄との接続関係を解明しました。
脊髄から出て行く神経が、遠心性の運動神経、
脊髄へ入ってくる神経が、求心性の感覚神経です。
この研究では、これらの各神経は、
別々の配線であることが分かりました。
即ち、遠心性線維は、前根から出力され、
求心性線維は、後根から入力されるということです。
この事実は、動物実験で、
実験動物の各根を切断することによる行動変化、
つまり、前根を切断することによる運動麻痺、
後根を切断することによる感覚麻痺から判明しました。

それと同時期に、ウイーンの医師であるガルは、
骨相学という学問を提唱しました。
骨相学というのは、種々の能力は、
大脳の異なる各部位で担当されており、
ある特定の機能が優位であることで、
その脳部位が突出し、頭蓋骨の形を変化させるために、
頭蓋骨の形からその人の性格が分かるというものです。
これに対しては、各方面から批判がありましたが、
パリのサロンでは流行しました。
この考え方は、科学的根拠に乏しく、
のちに、脳の形と頭蓋骨の形は相関しないことも分かって、
否定されるという結果にはなりましたが、
脳の各部位は異なる機能を有するという、大脳局在説は、
後の研究に大きな影響を与えました。

これに対して、1825年、骨相学を検証することを
ナポレオンから依頼されたフルーランは、
生きたウサギとハトの脳を部分的に破壊して、
運動や知覚などの機能の変化を観察しました。
結果、大脳皮質を破壊することで、感覚運動判断が消失、
小脳を破壊することで、平衡感覚と運動の調節が不可、
さらに脳幹を破壊することで死に至ることが分かりました。
したがって、脳には機能局在があることが示唆されたわけですが、
フルーランは、大脳高次機能は、局在せず、
全体に拡散しているのだという、大脳等能説の立場をとりました。

この後、さまざまな臨床場面で、
大脳局在論の正当性が示されていきます。

1848年には、以前お話しした
鉄道現場監督のフィネアス・ゲイジの事故が起こります。
直径3cmの鉄棒が
左頬下から左前頭葉を貫通し、大量出血し、
ひどい感染症に感染しました。
それだけの事故にもかかわらず、意識に問題はなく、
知覚や記憶にも問題はありませんでした。
しかしながら、彼の性格は一変し、
感情的で、キレやすくなってしまいました。
このような例から、
大脳機能は局在しているということが示唆されました。

1863年には、フランスの神経科医のブローカが
左半球前頭葉第三脳回損傷によって
言語が障害された8つの症例についての論文を発表します。
例えば、左前頭葉第三脳回に損傷を持つルボルニュという患者は、
「タン」としか発話することができない運動性失語でした。
このようなことから、この脳部位は、
運動性言語野もしくはブローカ野と呼ばれています。

また、1874年には、ドイツの神経学者のウェルニケが、
左半球側頭葉上側頭回損傷によって
意味のない発話を繰り返す言語障害が生じることを報告します。
このことから、この脳部位は、
感覚性言語野もしくはウェルニッケ野と呼ばれています。

この2例は、失語症や言語研究の例で
必ず最初に述べられる非常に有名なものです。

そして、大脳皮質運動野に関する研究も多く行われました。
1870年、フリッシュとヒッツィヒは、
非麻酔下のイヌの大脳皮質に電気刺激をしたところ、
脳部位によって、身体の特定部位が反応することをつきとめ、
運動指令を出す脳部位、運動野を発見しました。
1881年、フェリアーとシェリントンは、
サルの運動野が中心前回(大脳の中心に走る溝の1つの前)
であることを、その破壊による筋麻痺から発見しました。

このように、19世紀においては、
神経活動は、ガレノスの言うような液体によって生じるのではなく、
電気現象であるのだということと、
さまざまな脳機能は、各脳部位に局在しているのだということ、
とりわけ、言語野と運動野が発見されたことが
主な神経科学史の進展です。
他にも、今日は、ややずれると思ったので次回述べますが、
細胞説が出されたり、顕微鏡が開発されたりもしています。

次回は、ニューロンがどのようにして発見されてきたのか、
そして、20世紀、大脳機能局在を
さらに詳細に研究していく歴史を話します。