『ケーキの切れない非行少年たち』の書評をRさんに頼んでみた!【脳トレの重要性!】 | 日本一教育科学に詳しいコンサルタント

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悩める親の問題を解決します。

なんどやってもケーキを上手に三等分できない非行少年たちがいることをご存知ですか?

彼らは真面目になんども試すのですが、上手に三等分できません。

 

それと、非行に走り犯罪を犯していることがどう関係するのかを

元児童精神科医の少年院法務官が書いた興味深い本について

ご紹介したいと思います!

 

前回の書評に引きづつき、Rさんにお願いして書いてもらいました。

 

それではどうぞ!

 

 

↓↓↓↓

 

 

 

宮口幸治(みやぐち こうじ)『ケーキの切れない非行少年たち』2019年 新潮新書


 

 「非行少年」という言葉を見て、私たちはどんな少年少女をイメージするだろうか。夜になっても家に帰らず、繁華街やコンビニの前にたむろしている少年たちだろうか。あるいは、学校によく遅刻するような子供だろうか。制服を着崩したり、髪の毛を明るい色に染めている子たちだろうか。

 それぞれ抱く人物像は違っても、たいていは学校や家庭のルールを守らず、教師や親に反抗的な態度を取る子どもたちを思い描くのではないだろうか。

 

 ところが、今回紹介する書籍で取り上げられる「非行少年たち」は、前述したような私たちのイメージとは一線を画している。著者の宮口幸治氏は、精神科医として児童精神科に務めた後、少年院で法務教官として非行少年たちと密接に関わってきた人である。そのため、当然のことながら本書に登場するのは、ちょっとした素行の悪さや反抗的といったレベルを越えて、実際に犯罪行為に手を染め、法律を犯してしまった少年たちだ。窃盗、傷害、殺人など、少年たちが持つ犯歴も多様である。

 

 仮に、事前に知識を入れることなく「盗みをはたらいた少年」だとか「人を殺した少年」という字面だけ見たら、私たちはそんな少年たちにまずどんな感情を抱くだろうか。快か不快の二択をするなら、当然「不快」を選ぶだろう。もっと率直な言い方をすれば、少年たちに怒りを覚える人だって、決して少なくないだろう。

 しかしながら、著者はそんな私たちの非行少年たちに対する怒りや不快に待ったをかける。かといって、安易にお涙頂戴のストーリー仕立てで語ることもしない。そうではなく、著者は非行少年たちのいわゆる「知能」の問題に着目し、その力を向上させる社会的な支援の必要性を訴えているのだ。だからこその、このタイトルである。すなわち、「ケーキの切れない」とは、非行少年たちは「ケーキを等分に切り分けることもできない」ほどの知能レベルであり、軽度知的障害や境界知能にあたるというのだ。


 

1. 著者を驚かせた非行少年との出会い

 

 本書の序盤で、著者は法務技官として医療少年院に勤務した時のことを振り返っている。勤務してまだ日が浅い内に、素行の悪さで職員たちの手をわずらわせている少年を診察することになったのだ。その少年は、一度暴れ出すと強化ガラスにヒビを入れるほどの騒ぎを起こすので、職員が50人が駆けつけなければならない状況だという。ところが、著者の前に現れたのは、小柄で大人しく、質問にも素直に答える少年だった。そこで、著者は少年に、図形を写し取るテストをやらせてみた。すると、年齢とは不釣り合いなほど不正確で歪んだものを描いてよこした。この時、著者は少年たちの非行の原因には、単純な知能テストでは測りきれない、能力の問題が背景にあると直感したのである。非行少年たちに共通していたのは、以下の通りだ。

 

 ・簡単な足し算や引き算ができない

 ・漢字が読めない

 ・簡単な図形を写せない

 ・短い文章すら復唱できない

 

 ほとんど小学校低学年レベルの基礎的な学力だが、それらが欠けている彼らは、実際には中学生や高校生だ。著者はこの事実をもって、彼ら非行少年たちは社会に適応できないレベルの知能を持っており、このままでは、少年院の側が提供する矯正のためのプログラムなど役に立たないと結論づける。というのも、それまでに少年院で実施されてきたのは、認知行動療法と呼ばれる、加害少年自身に「考える力」が備わっている前提で組まれたプログラムだったからだ。

 それにしても、小学校低学年レベルの問題さえ解けない彼らは、どうして障害児として特別な支援を受けることもなく成長してしまったのだろうか。著者は、この点に関して、知能検査にも問題があると指摘している。


 

2. 知能検査の限界と落とし穴 〜軽度知的障害という「忘れられた人々」〜

 

 知能検査として一般的に最も広く知られているのは「IQ」である。そして、その中でも知的障害のレベルが「軽度」にあたる数値の人々(IQ51~70の人)は、知的障害者たち全体のうち8割を占めている。その割合の高さにも関わらず、軽度知的障害者は、いわゆる「健常者」たちと見分けがつかないため、社会から適切なサポートを受けるまでにいたらない。しかも、本人たちも自分のことを「普通」と思い込んでいる場合も多く、なおさら支援が遠のき、放置される場合が多いと著者は指摘する。

 そんな彼らは、だいたいが小学校で勉強についていけず、周囲からバカにされ、親や教師からは「不真面目」で「手のかかる」子どもと誤解されることが多い。特に、非行少年たちの中には、イジメを受けた経験を持つ者が多数いる。彼らは、周囲からやっかいな邪魔者扱いをされるうちに、勉強嫌いが加速し、最終的に非行に走るのだという。その結果、最終的にたどり着くのが少年院であり、そこで知能検査をして初めて、彼らに障害があることが判明するのだ。

 さらに、著者は少年院に限らず刑務所のことも取り上げ、現場で実施されている知能検査は大雑把で不正確な「ザル」であり、実際よりもIQが高く見積もられている危険性を指摘している。一度でも「知的に問題はない」とみなされると、その犯罪者は更生が不十分なままで社会に再び出て行くことになるため、それが再犯率の高さにつながっているというのだ。


 

3. 褒めて伸ばす教育では不十分

 

 著者は、犯罪に対する人々の関心が「なぜそのような犯罪を起こしたのか」という原因の推測にばかり集まり、どうすれば再犯を防げるかについて考えられる機会が少ないことを問題視している。というのも、彼らを再犯に至らせず、社会で生活させれば、犯罪者を納税者に変えることができると考えているからだ。

 著者の計算によれば、現在刑務所で受刑者ひとりを養うのに、年間で300万円ほどかかっている。もしも彼らをきちんと更生させて納税者にすれば、100万円ほどの税金が納められると期待できるので、受刑者の更生はひとりあたり400万円の経済効果を生むという。

 そういった、国家レベルの大きな視野で問題提起した上で、少年たちの非行や再犯の率を下げるには、「困っている子ども」たちの早期発見と支援が最も必要であり、そのためにはやはり、子どもたちと接する時間が一番長い教育の現場が変わって行く必要があると提案している。他の子どもたちについていけない知的レベルの子にとって、現在の画一的な学校教育は、サポートどころか悪影響をもたらすばかりだ。本来ならば、子どもが社会へ出て行ったときに適応する力を伸ばすことも大切なはずなのに、依然として国語、算数、理科、社会といった教科科目の勉強がほとんどを占めている。そのため、計算ができない、漢字が読めないといった子どもにとっては難しすぎてついていけないだけでなく、そのことが原因で「不真面目」と烙印を押されてしまう。そういった挫折体験を積んでしまった子どもたちが最終的に行き着く先、そのひとつに少年院がある。送致されてきた子どもたちには鑑別結果が添えられているのだが、その文言は決まって「自尊感情が低い、感情コントロールが苦手、対人関係が苦手、基礎学力がない」など所見が並べられた上で、「成功体験を積ませて自信をつけさせる、ソーシャルスキルトレーニングなどを通して対人スキルを向上させる、基礎学力をつけさせる」といった紋切り型のフレーズが並んでいるという。決まってそれらは「具体的に何をするのか」が書かれていないのも特徴だ。


 

4. 認知機能の向上と、自分への気づき、自己評価の改善

 

 ただ漠然と「自信をつけさせる」などといっても、褒めて伸ばすといった情緒的な交流だけでは不十分だと著者は指摘する。たとえ得意なことを伸ばしても、基礎体力としての記憶する力や考える力が足りないのであれば、社会生活に支障が出てくるリスクは減らせない。そこで著者は、医療少年院の少年たちに対して、脳の認知機能を向上させるグループワークを取り入れ、足りない力を補う取り組みを行ってきた。その活動を通して、最初は法務教官に怒られないために表面的な反省や従順さを身につけていた少年たちに、劇的な変化が訪れたのである。しかし、それは単に脳の機能を改善するプログラムを実施したからではなかった。事実、最初に著者がグループワークを取り入れた時は、少年たちから反発にあい、教育どころではなかったというのだ。ところが、全くやる気を見せなかった少年たちに対し、教える側になってみるよう提案したところ、彼らは積極的に前に出たという。つまり、彼らに必要なのは、ドリルのように問題を解いたりすることではなく、“人に教えてみたい、人から頼りにされたい、人に認められたい”といった、知的好奇心や承認欲求を満たすことであったのだ。それをきっかけとして、グループワークを通じて集団生活を学び、他者との交流を通して自分がどんな人間かを見つめ直す機会を得ること、それによって少年たちは、社会の中に身を置く自分の生き方や行動について考える力を養えるという。


 

【まとめ】

 

 「非行少年」たちは、社会のお荷物でもなければ、凶悪なモンスターでもない。子どもが非行に走るのは、突発的な発作のようなものではなく、そこに至るまでに積み重ねた「勉強ができない」とか「周囲から低く見られ、時には排除される」といった負の体験がある。だからといって、彼らに同情して、情緒的な励ましばかりをしていても、社会で生きて行くための力を養えるわけではない。

 非行少年たちに必要なのは、脳機能を向上させる教育と、それを通じて対人交流の機会を得て、自分自身について考えたり、長期的な視点で物事をみる力をつけることである。大人たちは、特に教育現場でのサポートを充実させ、集団からこぼれ落ちた結果、非行が最後の受け皿になるような子どもたちを減らすよう努める必要がある。