『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その141 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その141

第41回 義盛、お前に罪はない

今回は、和田合戦で獅子奮迅の活躍をした義盛(横田栄司)三男朝夷名(朝比奈)三郎義秀(栄信)について

 

栄信、『鎌倉殿の13人』で念願の大河ドラマ出演「やっと届いた」 朝比奈義秀役で | | ORICON NEWS | 佐賀新聞

(以前、NHKの夜ドラ『カナカナ』に出てた!またしても使い回しが激しい笑)

 

 朝夷名義秀の『鏡』初出は、まさに彼の猛者ぶりを「マジか!」と言うほどに伝えている。それは、1200(正治二)年9月2日、二代将軍源頼家(金子大地)が、小坪海岸(神奈川県逗子市小坪)へ遊びに出かけた時の事。余興として船上で宴会が行われた。その時、頼家は義秀に「お前は水練(泳ぎの達人)と聞いている。その腕前を見せてみよ。」と命じた。断りきれなかった義秀は、海に飛び込み、とりあえずは数町(数百メートル)を往復し、その後、波間に潜ってしばらく出てこなかった。皆が心配していると、なんと生きたサメを3匹捕まえて、船の前に浮かんできた。見ていたもの達は、皆やんやの喝采を送った。

 

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(小坪海岸:神奈川県逗子市)

(『前賢故実』(江戸から明治にかけて刊行された伝記集)にあるサメを捕らえた義秀)

 

 何とも、にわかには信じ難い話だが、これにはまだ続きがある。

 

 義秀の”偉業”に対して頼家は、自分が小坪まで乗ってきた龍蹄(りゅうてい:名馬の事:馬の名前ではない)を褒美として与えようとした。その時、義秀の長兄常盛が、「泳ぎでは義秀に敵わないが、相撲なら負けませんよ。褒美の名馬は、相撲の勝者に与えると言うのはどうでしょうか。」と提案した。常盛もその名馬が欲しかったのだ。

 

 頼家は面白がって、その提案を受けた。いざ勝負が始まると一進一退でなかなか勝負がつかず、大地も揺さぶられるような迫力の大一番だった。義秀が少し優勢になった時、勝負がついたら二人に遺恨が残ってしまうと思った義時(小栗旬)が、二人の間に入り、勝負を預かった。褒美の名馬はどうなるのかと思った瞬間、常盛は裸のまま馬に飛び乗り、どこかへ行ってしまった。自分の褒美を横取りされた義秀は、地団駄踏んで悔しがった。周囲の者達は、その姿を見て、顎が外れるくらいに大爆笑した。

 

 この話の後、義秀はしばらく『鏡』に出てこない。そして、次に出てくるのが、和田合戦の時だ。その勇姿を『鏡』で追ってみよう。

 

 1213(建暦三)年5月2日、義秀は、泰時(坂口健太郎)と朝時(西本たける)らが守る総門(正門)を突破し、南庭に乱入して守っていた御家人らを攻めに攻め、御所に火をつけた。将軍実朝(柿澤勇人)、義時(小栗旬)、大江広元(栗原英夫)らは、頼朝の墓所にあった法華堂への避難を余儀なくされた。戦いが続く中、義秀の戦う姿はまるで風神雷神のようで相対した者で死なない者はないと『鏡』は語る。

 

国宝「風神雷神図屏風」を忠実に再現した高精細複製品を建仁寺に奉納、一般公開へ

(国宝『風神雷神図屏風』俵屋宗達:京都国立博物館蔵)

 

 そんな中、高井重茂(義盛の甥)が義秀と組み合った。お互いに弓を投げ捨て、馬を並べて取っ組み合ったが、一緒に落馬したところで重茂は義秀に討たれた。敢えて義盛に味方せず、一人で御所の戦いに参戦した高井重茂の死に、人々は皆感嘆したという。

 

 高井重茂を討ち取り、馬に乗ろうとした義秀に、今度は北条朝時が挑んだ。朝時は、義秀と同じくらいの猛者だと『鏡』は言う。ドラマの中では、女癖が悪く父義時から勘当されるは、合戦の時には矢が当たったフリをして最前線から逃げるは・・・と情けないキャラだが・・・。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41話。いったん戰場を離れた北条朝時(西本たける)だったが…(C)NHK― スポニチ Sponichi Annex 芸能

(弟朝時のこの姿を見た泰時は板塀戦車を思いつく (注)板塀戦車が私が勝手に名付けたものです。悪しからず)

 

 二人の戦いは、接戦だったようで、朝時は傷を負ったが命を失うことはなかった。軍技も戦闘力も抜群だったからだと『鏡』は言うが、少し持ち上げ過ぎの感は否めない。続いて足利義氏(※1)が、筋替橋のあたりで義秀と鉢合わせてしまった。義秀は、義氏の鎧袖をつかむ、義氏は逃れようと馬に鞭を打つと、鎧袖が引きちぎれた。義秀の怪力を示すエピソードだ。逃げる義氏を追った義秀だったが、長引く合戦に馬も疲れ果てていたのと、鷹司冠者(詳細不明)が間に割って入ってきたので、義氏は逃げおおせたが、鷹司冠者は義秀に討ち取られた。

 

鎌倉十橋〉筋替橋 - 鎌倉タイム

(筋替橋の信号のある交差点:近くに横浜国大附属鎌倉中学校がある)

(筋替橋の石碑)

 

 疲労した義秀は、西御門川の東側で一旦休息を取った。その後、若宮大路の米町口(※2)で武田信光(※3)と出会し、お互い睨み合い、いざ組まんとした時、信光の子悪三郎信忠が二人の間に割って入った。義秀は、信忠が父に代わって死ぬつもりであるという健気さに感じ入り、戦わずしてその場を去った。(※4)

 

いろんな鎌倉: 下の下馬橋・・・若宮大路

(下馬橋跡:正確には『下の下馬橋』跡)

 

 翌日の合戦は、由比ヶ浜が主戦場だった。義秀は、和田陣内に攻め込んできた九州武士小物又太郎資政(詳細不明:でも名前が弱そう(笑))を討ち取り、攻める幕府軍を馬上で蹴散らしていた。この時、泰時は、将軍実朝に作戦の変更を依頼している(その139参照)。義秀の奮戦も虚しく、和田勢は次々と討ち取られていく。義盛が討ち取られるのを見た義秀は、500騎を引き連れ、六艘の船に分乗し、海路安房国に逃れた。安房国朝夷が義秀の所領だったからである。

 

SANALOG:Weblog雑記

(九十九里浜がすっぽり入るのが朝夷郡)

 

 義秀は、その後、高麗(朝鮮)に渡ったとも言われるが、『鏡』にある和田合戦で討ち取られた武士の名簿に義秀の名がある(5月6日条)。逃れたものの、すぐに討ち取られたと考えられる。しかし、稀代の猛者朝夷名三郎義秀の最期の詳細は残念ながら不明である。

 

 また、義秀の母親は、巴(秋元才加)と言われることもあるが、義秀は、1176(安元二)年生まれなので、最初に巴を愛妾としていた木曽義仲挙兵の四年前なので、計算が合わない。おそらくは、巴の武勇と義秀の武勇を結びつけた後世の浮説だろう。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41回コメント 秋元才加、巴御前 - MANTANWEB(まんたんウェブ)

(敵を薙ぎ倒しつつ、鎌倉を去る巴:91歳まで生きたという伝承がある)

 

※1 室町幕府を開いた足利尊氏の五代前の先祖。換言すると、尊氏は義氏の来孫(らいそん:

   五代後の子孫)。

※2 現在の下馬橋あたり。当時、下馬橋は3つあった。鶴岡八幡宮の源平池に架かる太鼓橋を『上の下馬橋』、二の鳥居(段葛が始まる鳥居)近くの扇川に架けられた橋を『中の下馬橋』、そして佐助川(今はない)に架けられた橋で『下の下馬橋』。義秀が武田信光と出会ったのは、この『下の下馬橋』あたりと推定される。

※3 八嶋智人が演じた武田信義の五男。有名な武田信玄(晴信)の14代前の武田当主。

※4 『鏡』1241(仁治二)年12月27日、信光はこの時の事を振り返って、義秀は信忠に「命を粗末にするな」と声をかけ、戦わずして去っていったと述べている。