『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その140
第41回 義盛、お前に罪はない
今回は、和田義盛の最期について
義時(小栗旬)の策略にハマ李、族滅した和田一族。今話では、義盛(横田栄司)の壮絶な最期が描かれた。その最期を、和田合戦の経過を簡単に追いながら見ていきたい。
(まるで弁慶の仁王立ち!)
1213(建暦三)年5月2日、義盛は挙兵するが、三浦義村(山本耕史)はこの時、北門警固の約束を反故にして義時に与する。義村は、挙兵直後に義盛を裏切り、義盛挙兵の報を義時に伝えた。コラム138をご参照のこと。
(飲み込んでしまった起請文を大量の水を飲んで吐き出す場面。長沼宗政だけが吐けず、八田知家が「俺の指を使え!」と迫る場面。大爆笑だった。)
義時はこの時、囲碁に興じていた。双六ではない。実は、義村の報告を受けた義時は、特に驚いた気配は見せなかったと『鏡』は記している。義盛と横山時兼が結託して戦を仕掛けてくる予測はしていたが、まさか今日ではないだろうと、義時は余裕を持っていたという。つまり、義時は、義盛勢の動きを熟知した上で動いていたということだ。翌日の5月3日に横山時兼らが鎌倉に到着し、和田勢と合流していることを考えると、決起前日、つまり敵方の準備が整う前に、義時側から攻撃を仕掛けたと見た方が良さそうだ。
ちなみに、横山時兼は、武蔵国多摩郡横山荘(東京都八王子市付近)を領した武士。同族的武士団武蔵七党の中でも最大規模の横山党の首領。義盛とは姻戚関係にあった(義盛の妻が時兼の叔母、義盛の嫡男で弓の名手と言われた常盛の妻が時兼の妹)。
(横山党の館があった場所:現在は横山神社:東京都八王子市)
申の刻(午後4時ごろ)蜂起した義盛は、御所を襲撃。さらに自軍150騎を三手に分け、幕府南門、義時邸西門・北門を攻めた。この時、守備兵たちは、板塀を盾がわりにして、その隙間を矢狭間(やさま:矢をいる隙間)にして応戦するも多数の死傷者を出した。今話で泰時が弟朝時が板塀を頭上に乗せて防護している姿を見て、まるで板塀戦車のようなものを作り、和田勢に攻めかかる場面と同じだ。
蛇足だが、この場面で、15年くらい前に観た『300(スリーハンドレッド)』を思い出してしまった笑。スパルタとペルシア帝国との戦いを描いたこの映画の中で、スパルタの精鋭部隊300名が、100万とも言われたペルシアの大軍と戦う。その時、スパルタは、まるでおしくら饅頭のような円形の陣を敷き、周囲と頭上に盾を密集させて、雨のように降ってくる矢を避けた。今回の泰時・朝時の闘い方は、まさにこの『300』の一場面だったのではと考えるのは、勘ぐりすぎだろうか・・・。
(結構残虐シーン連続の映画だったなぁ)
閑話休題
酉の刻(午後6時ごろ)、和田勢は幕府を包囲、泰時(坂口健太郎)、朝時(スーパーサイズ・ミー西本たける)らが懸命に防戦する。しかし、義盛の三男で剛腕として名高い朝夷名(朝比奈)義秀によって、門を突破され、御所に火がかけられた。実朝(柿澤勇人)は難を逃れるため、義時、広元(栗原英夫)らとともに、頼朝法華堂に移った。※1
日も暮れて星が見える時間になっても合戦は終わらなかった。義盛の部下たちは皆一騎当千の強者だったと『鏡』は記す。同時に、泰時もその敵を恐れず奮戦したことが記されている。疲労困憊した和田勢が、由比ヶ浜に陣を引き上げた後、広元は重要文書を取りに行くため、政所に向かう。ドラマの中では、政所に侵入した和田勢をバッタバッタと切り捨てる場面が描かれたが、実際には警護の御家人に守られてのことだった。
(泰時けっこう強いじゃん!と思わせた一場面)
(泰時よりもチョー強いじゃんと思わせた広元(笑))
翌3日寅の刻(午前4時ごろ)、予定通り横山党が一族を引き連れてやってきた。食料もなくなり、疲弊していた和田勢は活気づいた。『鏡』は、加勢した横山党を加えて和田勢は三千騎になったと記す(実際には1/10くらいか?)。
辰の刻(午前8時ごろ)、実朝の命令で出陣した曽我、中村、二宮、河村など相模(神奈川県)の武士たちは、腰越、稲村ヶ崎あたりに陣を敷いたが、勝敗の行方が見えず、動かなかった。しかし、将軍実朝の花押の入った御教書(命令書)の威力は抜群で、これを見た御家人たちは皆見方についた。この御教書は、さらに武蔵国など近隣にも出された。
同時に幕府は大軍を由比ヶ浜に送り、合戦となった。義盛は、再度御所を攻めようとするも、要所を泰時らに固められ、思うようにならず、由比ヶ浜での合戦は続いた。この時、前戦にいた泰時は、数では優っていても和田勢は簡単には負けそうもないので、新たな作戦を立てた方が良いと実朝に進言した。実朝は急ぎ広元を呼び、策を練った。そして、神様に祈願する書を送りましょうということになって、広元がその祈願書を書き、実朝は奥書に自筆で和歌を二首書き、鶴岡八幡宮に送った。何とも悠長な感じだが、今で言うと、困った時の神頼みだ。
(鶴岡八幡宮:実は和田合戦の時、実朝はここには避難していない)
酉の刻(午後6時ごろ)、義盛の四男義直(内藤正記)が伊具盛重(いぐもりしげ:※2)に討ち取られた。37歳だった。義盛は、可愛がってきた義直の死を悲嘆し、「自分の領地を継がせようと思っていた義直が死んでしまっては、合戦を続ける意味がなくなってしまった」と大泣きし、我を失っていたところを大江能範(おおえよしのり:詳細不詳)の家臣に討ち取られた。67歳だった。
(義盛ら和田一族の墓:和田塚:神奈川県鎌倉市由比ヶ浜)
義盛の最期は、自暴自棄となり、討ち取られる形だった。義盛が討ち取られた後、一族はことごとく討ち取られていくが、嫡男常盛ら一部は逃げ去った。しかし、後年起こる宝治合戦(北条vs.三浦)で残ったものたちも悉く死んでいくことになる。
(合戦後、目に涙を浮かべつつその場を立ち去る義時。義時の最期はどう描かれるのか?)
※1 朝夷名(朝比奈)義秀については、次回書きます。今話で出てこなかったのが残念!
※2 陸奥国伊具郡(宮城県丸森町、角田市)を領した伊具十郎平永衡の末裔か。永衡は、前九
年の役で源頼義(頼朝の五代前)の麾下にあったが、頼義に敵対していた安倍頼時の娘を
妻としていたため、通諜(スパイ)と疑われ殺された。奥富敬之著『日本家系・系図大辞
典』(東京堂出版2008より