『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その138
第40回 罠の罠
今回は、一味神水(いちみしんすい:いちみじんずい)について
今話の一場面。
和田義盛(横田栄司)は、北条館を訪ね、実朝(柿澤勇人)の仲介によって北条との戦は避けられるかに思われた。実朝は義盛を双六に誘う。和田邸で戦支度をしていた一族は、義盛の帰りが遅いことに業を煮やし、将軍御所襲撃を決める。挙兵後に和田勢を裏切ろうとしていた三浦義村(山本耕史)、八田知家(市原隼人)も打倒北条の鬨の声を共にあげるが、巴(秋元才加)は義村に起請文(誓約書)を書けと迫る。そこまで信用できぬのなら自分達は共に戦えないとその場を去ろうとするも、一触即発の状態になり、義村は起請文を書くことに同意する。その後、書かれた起請文は、碗の中で燃やされ、焼けた灰に神水(酒の場合もあるが、劇中ではどちらかはわからなかった)を注ぎ、皆で回し飲みをして、共に戦うことを誓い合った。
(甥胤長を助けてくれという無数の義盛たち(笑)の願いも叶わなかった)
(『一味神水』の場面:実際には八田知家この場にはいない)
この儀式を『一味神水』という。南北朝時代、在地の中小領主である国人(こくじん)が一揆を結ぶときに行われた、と日本史の授業では教える。ちなみに、一揆というと農民が農具などを武器として、領主に年貢減免などを訴えて、蜂起するイメージを持たれている方が多いと思うが、本来の意味は、『揆を一にする』つまりは仲間になるとか徒党を組むというくらいの意味だ。武装蜂起を意味する言葉ではなかった。
(江戸時代の農民一揆:この時代も一揆を組み、代表者が代官などに訴える形や耕作を蜂起して逃げ出してしまう逃散など色々な形があった。)
鎌倉時代にも『一味神水』??と少し気になったので調べてみると、13世紀後半、近江国大島奥津島(おおしまおくつしま:滋賀県近江八幡市北津田町)神社の神官と地域の農民たちが起請文を作り、違反者は在地(自分達の土地・地域)から追い出すと定め、『一味神水』を行っている(※1)。
いずれにしても、『一味神水』によって、義村らは義時(小栗旬)を裏切らざるを得なくなった。義村に引き返すよう伝えよ、と義時から命じられたトウ(山本千尋)が、その現場を目撃している。さぁ、義村たちはどうなるのか?来週の見どころだ。
(義時の命を義村に伝えるために和田館に来たトウだったが・・・)
少々ネタバレだが、『鏡』1213(建暦三)年5月2日条には、義村と胤義(岸田タツヤ)らは、義盛と共に蜂起し、御所の北門の警固をすると『同心の起請文』を書きながらも、後にそれを改変、つまり覆して北条側に与したとある。義盛を裏切った理由は、三浦一族が、先祖代々源氏に仕え、その恩恵に浴しててきたので、一族とはいえ義盛に与して、先祖代々の主筋に戦を仕掛けると天罰が下るだろうと、起請文の件を後悔しつつも、義時に企ての全てを伝えたと『鏡』は記す。※2
蛇足を一つ。義時は、義村から和田蜂起の報を聞いた時、『囲碁』に興じていた。『双六』ではなかった。今話で義時が双六をしていたのは、鎌倉幕府草創以来の御家人和田義盛の滅亡と上総介広常(佐藤浩市)暗殺の場面とをオーバラップさせる演出だと思われる。
次回はいよいよ和田合戦。義盛の最期がどのように描かれるのか。現在、体調を崩して療養中と報道された横田栄司氏の快復を祈りつつ鑑賞したい。
※1 『国史大辞典』より。
※2 義村の五代前の為通(ためみち:為道とも書く)が、前九年の役で源頼義に従い、その
功によって、三浦の地を与えられたという。為通は三浦氏の祖と言われる。