『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その134
第38回 時を継ぐ者
今回は『羽林(うりん)』について
またしても神回でしたね。胸が熱くなりました。義時(小栗旬)の黒衣、かっこいいですねぇ。ついに義時も最終形態となりました(笑)
(漆黒の衣で身を包んだ最終形態の義時)
そして、三浦義村(山本耕史)の強いこと。でもそれだけではなく、トウ(山本千尋)を羽交い締めした時でさえも口説く義村(笑)
(羽交い締めしたトウを口説く義村。トウも義村の手を握り、その気のあるところを示し、義村の隙を見て反撃し、逃走・・・なかなか面白かった!)
そして、相変わらずの八田知家(市原隼人)の叶姉妹並みの胸筋!あっ、叶姉妹は胸筋でなく、✖️×✖️✖️ですね(💌笑)。
(市原隼人インスタより)
閑話休題
名越にある時政(坂東彌十郎)邸に軟禁された実朝(柿澤勇人)。その身を案じて駆けつけた義盛(横田栄司)は、三浦義村の制止も聞かず、時政が刀を抜いて実朝に起請文を書くように迫る緊迫した部屋に突入する。直情径行キャラの義盛然と言ったところか。しかし、その性格が自らの寿命を縮めることになる。
(実朝の身を案じて駆けつけた義盛だったが、状況が読めず、相変わらずのトンチンカンぶり)
その後、企みの困難さに気づいて時政は、りくに別れを告げる。そして、実朝と、自分を『武衛』と呼ぶ義盛との会話。
実朝「武衛とは、兵衛府のこと。親しみを込めて呼ぶものではない。」
義盛「そうなんですかぁ」
実朝「私も去年まで武衛であった。」
義盛「だったらいいじゃないですかぁ」
実朝「今はそれより上の『羽林』だ。」
義盛「『羽林』・・・?」
『羽林』が『武衛』より格上の呼称であることはわかったが、それ以外のことは説明がなかった。
『羽林』とは、近衛府(このえふ)のこと。近衛府は正式名称「ちかきまもりのつかさ」という。その32でも書いたが、律令制において天皇側近の武官として近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の5つの官職(五衛府※1)がある。その中でも近衛府は最上位の官職。近衛府の唐名(中国風の呼び方)が『羽林』だ。実朝は、1205(元久二)年1月5日、正五位下に任じられ、29日には右近衛中将に任じられて『羽林』となった。畠山重忠(中川大志)滅亡の五ヶ月前のことだ。
(源実朝像:京都大通寺)
『武衛』は、兵衛府なので実朝が任じられた『羽林』の方が上位となる。頼朝は、平治の乱のどさくさの中で兵衛佐(ひょうえのすけ)に任じられたので『武衛』と呼ばれたが、後に右近衛大将に任じられ、『右幕下(うばっか)』と呼ばれるようになる。
(源頼朝像:東京国立博物館蔵)
実朝の兄二代将軍頼家(金子大地)は、左衛門督(さえもんのかみ)だったので、その唐名『左金吾(さきんご)』と呼ばれた。
(源頼家像:静岡県伊豆市:修禅寺蔵)
実朝の官位は、その後次々と上昇していく。極位(きょくい:ある人物が、朝廷から与えられた最高の位)は正二位。頼朝の極位も正二位だから、実朝は父に追いついたことになる。与えられた官職は、順に権中納言(ごんちゅうなごん)、左近衛中将、左近衛大将、内大臣そして極官(きょっかん:ある人物が、朝廷から与えられた最高の官職)の右大臣となる。
実朝自身も、源氏の嫡流の血統は自分で終わるので、源氏の名誉のため、官位官職は究極まで高めたいと願っていたので、願ったり叶ったりなのだが、これは後鳥羽上皇(尾上松也)による『官打ち(かんうち)』だと『承久記』は伝える。『官打ち』とは、分不相応に高い官位官職につけることで、その人物を呪い殺そうとする恐ろしいおまじない。最近の歴史家の見立てでは、後鳥羽上皇と源実朝は対立関係というよりも、むしろうまくいっていたとする見解が有力だが、昔は良くこの『官打ち』という言葉を使って、朝廷・幕府の対立を鮮明にしようとする見解もあった。
いずれにしても実朝は、極官である右大臣就任拝賀の際、甥の公暁(こうぎょう:寛一郎)に暗殺される。次回、いよいよ公暁が登場する。
(次回登場する公暁(寛一郎):なんとも凛々しい!)
※1 五衛府は、9世紀に近衛府も左右に別れ、六衛府となる。