『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その129
第36回 武士の鑑
今回は、三浦義村(山本耕史)の弟胤義(たねよし:岸田タツヤ)について
その前に、前回書き忘れたことが・・・。畠山重忠(中川大志)が討たれたその日に、『のえ(菊地凛子)』は政村を産む。今話の冒頭、泰時(坂口健太郎)が『のえ』とすれ違った時、『のえ』がつわりの苦しみをこれみよがしに見せた場面、あの時、お腹にいたのが政村だ。それにしても、菊地凛子はいいねぇ。「おえっ」といった後、お腹をさすって、「自分のお腹には、あなたの父義時の子がいるのよ!今更、あなたが口出ししてもどうにもならないわよぉ!」的な不敵笑みを浮かべる。そして、ため息をつく後ろ姿。すごい演技だった。
閑話休題。
今話冒頭で、時政(坂東彌十郎)から畠山追討を命じられた三浦義村。その後ろに控えていたのが、弟の胤義だ。胤義は、三浦義澄(佐藤B作)の子として生まれた。平九郎判官(へいくろうほうがん)と言われていたので、義澄の九男。義村は、平六(へいろく)と言われていたので、六男。胤義の生年は不詳だが、こうしたことから義村の弟であることがわかる。
兄義村と共に、重忠追討、牧氏の変で功をたて、同族の和田義盛(横田栄司)が反乱を企てた時には、盟約を結んでいた義盛を裏切り、計画を義時(小栗旬)に知らせた。胤義は、そうした功によって、上総国伊北(いほう:千葉県夷隅郡・勝浦市)の地を与えられた。(『鑑』1213(建暦三)年5月7日条)
その後、将軍実朝(柿澤勇人)のお供や警備で『鏡』に出てくるが、目立った動きはしていない。また、時期は不明だが、胤義は京に上った。『承久記』(鎌倉中期成立の『承久の乱』をテーマとした軍記物)に、胤義の妻は、二代将軍頼家(金子大地)の北の方(正妻)だった女性で、夫頼家は時政に殺され、その子供は義時に殺された。そのことで、毎日のように妻は悲しみの涙に暮れている。それがかわいそうでならない。鎌倉に対して謀反を起こし、妻と自分の心を慰めたいと言っているので、北条執権家への恨みがあり、京に上ったと思われる。※1
この話は、討幕を目論む後鳥羽上皇の意を受けた藤原秀康(藤原北家流の武将:承久の乱では京方の大将軍となる)が、胤義を酒宴に招いた時の話だ。胤義は上皇方の武力として大いに期待されていた。そして、胤義自身も、北条への恨みを晴らす好機が訪れたのである。
胤義は、この席で秀康に、「自分が兄義村に手紙を一通書けば、義時を討ち取るのは容易いでしょう」とまで話している。実際に胤義は、兄義村に手紙を書き、自分の策を知らせているが、兄義村は弟の誘いに乗らなかったばかりか、手紙の内容を義時に知らせた。義村の老獪さを示す逸話だが、承久の乱後、義村は弟を裏切ったということで、『三浦の犬は友を喰らう』と揶揄されることになる。
(三浦胤義遺孤碑(みうらたねよしいこのひ):神奈川県逗子市)
承久の乱については、いずれは書かなければならないが、胤義ら京方は幕府軍に敗れ、胤義は京の西山木島(にしやまこのしま)社まで逃げ延びるが、進退極まって自害する。1221(承久三)年6月15日午後4時頃のことと『鏡』は記す。
※1 兄義村に対して恨みがあったとする説もある。今話で重忠を攻める軍議の際、胤義は自分
の策を兄に門前払いにされている。もしかしたら、これは三谷幸喜の前振りなのかもしれ
ない。