『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その128
第36回 武士の鑑
今回は、愛甲季隆(あいこうすえたか)について。※重忠に関しては『その98』参照のこと。
鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠(中川大志)が討たれた。数々の伝説を残した武士であり、イケメン中川大志が演じていることから、重忠ロスがネットでは囁かれている。重忠の死をなかなか受け止められない中、『オンベレブンビンバ』という次回の題名が出てきた。「なんだこれ?」と意識がそっちに持って行かれ、重忠の余韻に浸りきれなかった方も多かったろう。この呪文のような言葉の意味は、次回解き明かされるだろうし、三谷幸喜なのできっと何か仕掛けがあるはずなので、それを楽しみにしたい。
(中央が重忠の五輪塔:畠山重忠公史跡公園:埼玉県深谷市)
今話で重忠はいわゆるナレ死。その死の場面は描かれなかった。
(うーーん、かっこいい!)
弓での戦いも太刀での戦いも、なかなか決着がつかなかったが、午後4時過ぎ、愛甲三郎季隆の放った矢が重忠に当たり、季隆はすぐにその首を取り、義時(小栗旬)の本陣に届けた。
(義時との一騎討ち:この後、義時を組み伏せるも、とどめを刺さなかった重忠)
『鏡』が記す重忠最期の場面だ。お昼頃始まった合戦は、4時間余りで決着した。今話のように、義時と重忠が一騎討ちするような場面は記されていない。
(重忠終焉の地:横浜市旭区)
重忠を射殺(いころ)した愛甲季隆は、相模国愛甲郡(神奈川県厚木市愛甲)を本領とする御家人。頼朝時代から弓の名手として、『鏡』に頻繁に登場する。愛甲氏は、武蔵七党(※1)の横山党から分かれた血統。第30代敏達(びだつ)天皇を祖とする。
1193(建久三)年5月16日、富士の巻狩りの際、当時若君と呼ばれた頼家(後の二代将軍:金子大地)は見事に鹿を射止める。ドラマの中では、弓が下手な頼家に、なんとか鹿を射止めさせるため、剥製のような鹿を用意する場面が出てきた。しかし、『鏡』を見ると、愛甲季隆が頼家の近くにいて、巧みに鹿を追い込んでくれたので鹿を射止めることができたという。頼朝(大泉洋)は、息子に手柄を立てさせてくれたとして、季隆に一番褒美を与えたいと伝えた。
百戦錬磨の狩りの名手、弓の名手であった季隆は、昔から伝わる狩り等に関するさまざまな言い伝えを熟知していたという。そんな季隆に、重忠は討たれた。
ちなみに、『愚管抄』(※2)によると、「重忠は武士の方はそのみたりて第一に聞こえき。さればうたれけるにもよりつく人もなくて、終に我とこそ死にけれ。」つまり、人望もあり、武士の鏡と言われた重忠だったので、誰一人重忠と組み合おうとしなかったので自ら命を絶ったと伝えている。
(愛甲季隆の五輪塔:宝積寺:神奈川県厚木市)
その後、季隆は、1213(健保元)年5月に起こった和田義盛(横田栄司)の乱で、義盛に与して幕府軍に討ち取られている。没年齢はわからない。
※1 平安末期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国に存在した同属的武士団の総称。『鏡』に
は武蔵七党の呼称は見えない。後の時代にこうした名称が定着したと考えられる。横山党
以外には、猪股(いのまた)党、私市(きさい)党、児玉党、丹(たん)党、西(にし)
党、野与(のよ)党、村山党がある。
※2 慈円(じえん:山寺宏一)が著した歴史書。鎌倉時代前半の一級史料。