『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その122
第34回 理想の結婚
今回は、のえ(伊賀の方:菊地凛子)と戯れる義時の二人の子供たちについて。その1。
北条泰時(坂口健太郎)の妻初(福地桃子)が「父上はもう嫁取りをするおつもりはないのかしら。お子たちがかわいそう。まだ小さいのに。」と唐突に話す場面、泰時は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
いやぁ~、義時(小栗旬)三番目の妻のえ初登場でしたねぇ。何とまたしても義時はキノコをお土産に(笑)のえについては、以前書きましたが、まだまだ書かなければならないことがあるので、そのうち書きます。
(のえ:伊賀の方)
(嘘をついたのえ(笑))
(裏の顔を持つのえ:彼女もりく(宮沢りえ)に負けず劣らずトラブルメーカーとなる?!)
そののえが庭で戯れた義時の二人の子供たち。姫の前(比奈:鶴田真由)との間に生まれた子供たちだ。一人は後の朝時(ともとき:子役は髙橋悠悟?:オープニングで役名なしで登場)、もう一人は後の重時(しげとき:子役は加藤斗真?)。今話は畠山重忠(中川大志)が討たれる直前の時期なので、年齢的には兄朝時が12歳くらい、弟重時が7歳くらいだろうか。
(朝時の幼少時代を演じる髙橋悠悟)
(重時の幼少時代を演じる加藤斗真)
朝時は、祖父時政(坂東彌十郎)の名越にあった館を受け継ぎ、名越流北条氏の祖となる。この名越流北条氏は、北条の嫡流家である得宗(とくそう)家とは微妙な距離を置きつつ、時に得宗家と対立するような家となる。『平戸記(へいこき)』という京の公卿の日記に面白いことが書かれている。「異母兄泰時の死の翌日、朝時は出家をした。日ごろは兄弟の間は疎遠になっていたのに、出家するとは不思議だ。」というのだ。京の公卿が何を根拠にこのようなことを書き残したのかは不明だが、朝時の子孫たちは北条の得宗家(嫡流家)に逆らって、処罰されていることから、朝時の代にも異母兄でそれも正妻でない腹に生まれた泰時への対抗心があったのかもしれない。
『鏡』には、朝時邸が何者かに襲われた時、泰時が政務の話し合いの最中、部下の制止を振り切って朝時を助けに向かった話がある。「他人にとっては些細なことかもしれないが、自分は朝時の兄なので、弟の命が危ないというのは、承久の乱と大差ないのだ」と泰時が部下に言った言葉を聞いた朝時は、子々孫々まで泰時の家に忠誠を誓ったという(1231(寛喜三)年9月27日条)。『平戸記』と『鏡』のどちらが正しいのか、俄には決め難いが、朝時の代には大きな事件は起きていない。
時間を少し戻そう。
朝時は、1212(建暦二)年5月7日、16歳の時、問題を起こして、実朝(柿澤勇人)の怒りを被り、謹慎させられている。その原因は、女性問題。朝時は、実朝の妻坊門姫の女官として京から鎌倉に下ってきた女性(佐渡守親康の娘)に一目惚れ。夢中になった朝時は、何度もラブレターを送り猛アタック。しかし、彼女はなかなか承知してくれない。そこで朝時は、真夜中に彼女の家に忍び込んで、誘い出したというのが理由。まるで、義時が姫の前に一目惚れして、ラブレターを何度も送ったことを彷彿とさせるような一幕。頼朝(大泉洋)の息子頼家(金子大地)が、家臣の愛妾を横取りしたように、朝時もまた、親の血は争えないということか(笑)朝時は、将軍実朝の逆鱗に触れただけでなく、父義時からも義絶され、駿河国(静岡県)に謹慎となるが、翌年和田義盛の反乱直前に鎌倉に呼び戻されている。
(本当は義時の一目惚れだった!:あぁ、比奈ちゃんロス続いてる笑)
朝時は、父義時からその秀でた武芸を期待されていた。和田合戦(1213年5月)では、これも武芸に秀で、鎌倉七口の一つ、朝夷名(朝比奈:あさいな:あさひな)切り通しを一夜にして切り開いたという伝説を持つ朝夷名三郎義秀と戦って、足を負傷しているが、命は落とさなかった。その後の朝時は、将軍の警護など御家人として働き、承久の乱では、軍勢4万を率いて、北陸方面から京に攻め上っている。私の住む糸魚川では、数少ない鎌倉時代の出来事として、この時、親不知(浄土崩れ)で朝時軍が朝廷軍と戦い、これを破っている。
その後も朝時は、将軍警護や正月の将軍おもてなし、将軍の方違えでの宿泊場所を提供するだけでなく、越後守、遠江守、評定衆(ひょうじょうしゅう:幕府の裁判を司る役人)などを歴任し、1245(寛元三)年4月6日、53歳で亡くなった。数ヶ月間、脚気(かっけ:ビタミンB1が欠乏して起きる病気。西洋医学が入ってくるまでは、脚気が原因で心不全などで多くの人が亡くなっている)と腹水で苦しんだと『鏡』は記す。