『鎌倉殿の13人』~後追い&先走りコラム その118
第32回 災いの種
今回は、北条政範(中川翼)について。
北条時政(坂東彌十郎)と後妻りく(牧の方:宮沢りえ)との間に生まれた政範。没年から逆算すると1189(文治五)年、頼朝(大泉洋)が奥州藤原泰衡(山本浩司)を攻め滅ぼした年に生まれた。父時政にとっては、宗時(片岡愛之助)、義時(宗時と同母弟:小栗旬)、時房(宗時、義時の異母弟:瀬戸康史)に次ぐ男子として生まれたが、後妻りくにとっては初めての男児である。宗時は頼朝挙兵時に死に、義時は江間を本拠としていたので、本来なら次の男子時房が北条の後継となるべきだが、実際には政範が北条の後継となっていたようである。
(懐かしい一場面だが、義時はこの時の兄宗時の言葉を実現しようとダークサイドに落ちた)
政範は、1204(元久元)年10月14日、実朝(峰岸煌桜:成人後は柿澤勇人)の正妻を迎えるために上洛した時、すでに左馬権助の官職を得ていたが、異母兄時房が官職を得るのはその翌年である。歳では15歳上の時房の任官が、異母弟政範よりも遅いということは、時政が政範を自らの後継と考えていた傍証となろう。もちろん、背後には時政がベタ惚れの後妻牧の方(りく)の存在が見え隠れするが・・・。
(このウィンクにはネットがざわついたようだ笑)
ちなみに政範の官職『左馬権助(さまのごんのすけ)』というのは、律令制度下で諸国にある馬の飼育や調教にあたる牧の管理にあたる『馬寮(めりょう)』の役職で、『助』というのは左馬寮という役所のナンバー2ということ、『権』という字は、一般に『権官(ごんかん)』と言われ、律令に定められた役人の定員を超えて任命された時に使われる肩書きだ。藤原摂関時代になると、名門の子息は成人すると一定の官職が与えられるようになったので、従来の律令の定員では収まりきれなくなり、こうした『権官』の仕組みができた。もちろん、こうした特例を持ってしても収まりきれずに、位は持っているが官職がないパターンも出てくる。こうした場合、『散位(さんに)』と言われる。今風にいうと、役人の資格はあるのに、何の仕事をするのが¥かが決まっていない感じ。位は持っているので、位に応じて位禄(いろく)という給料は支払われる。厳しくいえば、穀潰しだ。
『左馬権助』の位階は正六位下相当。皇族を別とすると、律令制の位階は30段階あるので、正六位上は上から十五番目、ちょうど真ん中あたりということになる。無位無官が圧倒的多数の東国にあって、10代でこの官職を得ることは、まさに東国武士の希望の星とも言えるだろう。こうしたことを持ってしても、政範は、時政・りくから将来を嘱望されていたことがわかる。政範が馬に関係した官職についたことは、母りく(牧の方)の実家と関係があるのかもしれない(その117参照)。
(現在の静岡県沼津市:この辺りにりくの実家大岡牧があった)
上洛後の同年11月5日、午前0時ごろ、政範は亡くなった。享年16歳。若すぎる死であったが、『鏡』はその死因について無言である。その死を伝える使者は、同月13日、鎌倉に着いた。政範は、11月3日に入京する前から病を患っていたという。我が子の死を知った時政、りくは、他に比べるものがないほどに嘆き悲しんだと『鏡』は記す。
同月20日には、政範の下僕たちが鎌倉に戻った。政範の亡骸は、東山の鳥辺野あたりに葬られたことが伝えられた。この下僕たちが、政範の埋葬の報告と同時に、朝雅(山中崇)と畠山重保の口論のことを報告した。これが畠山一族の滅亡の発端となる。
(政範の埋葬地鳥辺野:今も多くの墓が並ぶ京東山鳥辺野:昔から埋葬地として有名な場所)