『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その117 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その117

第32回 災いの種

今回は、平賀朝雅(山中崇)について。その2。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」キャスト 平賀朝雅、山中崇 - MANTANWEB(まんたんウェブ)

 

 三日平氏の乱を追討した朝雅。その功によって、伊勢国(三重県)の守護となる。守護・地頭は、鎌倉幕府の将軍と御家人の主従関係を構築する中核をなす仕組み。武功を立てた武士(=奉公)に対して、鎌倉殿が守護・地頭の権利を授与する(=御恩)。この御恩と奉公こそが鎌倉幕府を支えた。以前にも書いたが、モンゴルが日本に侵略した元寇は、防衛戦であったため、武功を立てた武士への恩賞が不十分だったことが、幕府の屋台骨=御恩と奉公を揺るがすことになる。

 

確かめよう、日本の歴史

 

 朝雅が伊勢国守護となってから約六ヶ月後、朝雅の運命を左右する事件が起こる。『鏡』で見てみよう。

 

 1204(元久元)年11月20日、幕府に北条政範(中川翼)の死が伝えられた。政範は、三代将軍源実朝(峰岸煌桜:次回実朝は元服するので柿澤勇人に代わるのでは?)の正妻(貴族坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘)を迎える使者として上洛していた。わずか16歳であった。政範については、その118で。

 

鎌倉殿の13人>りくが溺愛! 北条政範が登場 子役出身・中川翼が「将来を嘱望される若武者」に(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース

 

 その政範が亡くなる前日(11月4日)、朝雅の六角東洞院(京都市中京区御射山町)にあった宿所で宴会が開かれた。その最中に、主人である朝雅と畠山重保(畠山重忠(中川大志)の嫡男)が口論となった。口論の原因は不明。もしかしたらこの事件そのものがでっち上げかもしれないが、この時は、周囲の者が二人を宥め、大事にはならなかった。

 

ブルーボトルコーヒー 京都六角カフェ」東洞院六角に誕生、“コーヒーのため”の限定羊羹も - ファッションプレス

(六角東洞院付近にあるカフェ:さすが京都!おしゃれ!)

 

 年が明けた1205(元久二)年6月21日、朝雅から「去年、重保に悪口を言われた」と度々聞かされ、日頃からモヤモヤしていた牧の方(りく:宮沢りえ)が、畠山重忠親子を討伐してしまいましょうと時政(坂東彌十郎)に相談し、時政は義時(小栗旬)と時房(瀬戸康史)を呼んで相談した。結局、畠山親子を討伐しようということになるが、そのダメ押しをしたのが牧の方の兄(父という説あり)牧時親だ。あの亀の前(江口のりこ)事件で頼朝(大泉洋)の逆鱗に触れ、髻(もとどり)を切られた時親(山崎一)だ(※1)。この後、畠山重忠親子は滅ぼされるが、それはまたいつか書きます。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12話。梶原景時(中村獅童)に髻(もとどり)を切られ、悲鳴を上げる牧宗親(山崎一・手前)(C)NHK― スポニチ  Sponichi Annex 芸能

 

 畠山一族を滅ぼして味をしめた?牧の方は、その勢いで三代将軍実朝を亡き者にして自分の女婿平賀朝雅を将軍にしようと夫時政と画策する。その116で書いたように、朝雅は頼朝の血統ではないが、広い意味で清和源氏なので、三谷幸喜が描く牧の方であれば、「そんな固いこと言わなくても、源氏でしょ?」の一言で済ませそうな気がする。

 

鎌倉殿の13人】のキャスト・登場人物・相関図|小栗旬主演|【dorama9】

 

 いずれにしても、この企みは失敗に終わる(=牧氏事件とか牧の方の陰謀と言われる)。時政は出家して牧の方と共に伊豆に隠棲、義時が執権を継いだ。義時は、在京御家人に朝雅を討ち取るよう命じた。命令は同年閏7月25日に在京御家人に伝えられ、翌26日、朝雅も知るところとなる。その時、朝雅は後鳥羽上皇(尾上松也)と囲碁に興じていたという。自分の追討命令が出たことを知った朝雅は、動じることなく、上皇に「討手を差し向けられたようなので、退出を許してください。」と言ってその場を離れた。

 

伊豆詣|願成就院

(時政が建立したと言われる願成就院:静岡県伊豆の国市寺家:この近くに時政邸があった)

 

 六角東洞院の宿所に戻った朝雅は、五条判官平有範(ごじょうほうがんたいらのありのり)、後藤左衛門尉基清(ごとうさえもんのじょうもときよ)、源三左衛門尉親長(みなもとのさんざえもんのじょうちかなが)、佐々木左衛門尉広綱(ささきさえもんのじょうひろつな)、佐々木弥太郎高重(ささきやたろうたかしげ)らに襲われた。しばらくは防戦したが、防ぎきれないと察した朝雅は松坂(山科区)あたりまで逃げ、追いかけてきた山内持寿丸(やまのうちじじゅまる)が射た矢によって討ち取られた。享年は二十代半ばと記す系図がある。この持寿丸は、山内首藤経俊(山口馬木也)の六男だった。父の恨みを子が晴らす的な話だ。

 

 朝雅滅亡のきっかけを作った牧の方は、時政と共に伊豆に隠棲した後、時政と離縁し、京都に嫁いだ娘を頼って、その下で優雅に暮らしたと言われる。トラブルメーカーはいつの時代もしぶとい!(笑)憎まれっ子、世に憚る(笑)

 

※1 時親・・・あれ?髻を切られたのは宗親じゃない?と思われた方、流石です。時親は大岡時親と言われる。実は宗親と時親は同一人物という説があり、ここでは同一人物説に従いました。頼朝に髻を切られた恨みを晴らす的な脚本を想像しつつ(笑)元々牧の方の実家は、駿河国の大岡牧(静岡県沼津市)を本拠とした一族。大岡氏とも牧氏とも称した。牧とは馬を放牧飼育する牧場のこと。