『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その109
第28回 名刀の主
今回は安達景盛(新名基浩(にいなもとひろ))について
頼家(金子大地)が、安達景盛の愛妾ゆう(大部恵理子(おおぶえりこ))を景盛の留守中に無理やり自分のものにしてしまったことは、その107で書いたが、実際ドラマの中では、頼家とすでにラブラブ状態だったのにはチョイと驚いた。結果として、頼家の大いなる横恋慕は母政子(小池栄子)の叱責によって終わったが・・・。
後の回で描かれるかもしれないが、実はこの話にはまだ続きがある。
1203(建仁三)年10月6日、すでに後ろ盾比企一族を失い、将軍の座からも引きづり下ろされた頼家は、伊豆修禅寺に幽閉されていた。この日、頼家は母政子と三代将軍となった弟実朝(さねとも:柿澤勇人・・・まだ出ていない)に手紙を送った。山深い中に閉じ込められていてチョーヒマなので、以前そばに仕えていた者たちを伊豆によこしてほしいこと、さらに安達景盛を懲らしめてやりたいので自分に引き渡してほしいと。大いなる横恋慕に失敗して約4年。頼家はかなり執念深い男だったようだ。味方を変えると、景盛の愛妾ゆうはそれほどに美しい女性だったのかもしれない。
(修禅寺:修善寺は地名)
この頼家の要求は、一応検討されたようだが、もちろん却下。そればかりか、手紙をよこすことも禁じられてしまった。三浦義村(山本耕史)は、このことを伝える使者となった。思えば、頼家は生涯でどれほどのサビを身から出したのだろうか(笑)それでも懲りずに、ああしてほしい、こうしてほしいと言う姿。だめだこりゃ!とチョーさん並みに言いたくなるが、これは『鏡』に書かれていること。北条氏寄りに書かれた史書なので、北条が頼家を追い落とし、暗殺することを正当化している部分もあるだろう。多少は差し引いて考える必要がある。また、比企一族の女性を母にもつ景盛が、比企一族を裏切り、北条方に与したことも、頼家は気に入らなかったとも言われている。
話変わって、今話で父盛長(野添義弘)と一緒に頼家の御前に呼び出された景盛。第22回『義時の生きる道』で登場した子供時代からの面影を残しまくっている配役に、ネットがざわついた。義時(小栗旬)の嫡男金剛(後の泰時:森優理斗(子役))が、盛長の嫡男弥九郎(後の景盛:渡部澪音)を殴ってしまったことを詫びるシーンを覚えていれば、あぁあのデブチンがこんなに成長したんだと思われた方も多かったのではと思う。泰時の子役森優理斗と現在の坂口健太郎も何か似ているようなと思えてしまう。まさにキャスティングの妙と言えるだろう。
(北条泰時幼少期:森優理斗)
(北条泰時:坂口健太郎)
その景盛。頼家時代は将軍との相性は最悪だったが、三代実朝に時代になると父同様に将軍のお側に仕えることになる。鎌倉殿の13人には入っていないが、重要な評議には名を連ね、幕政の中枢の御家人となる。畠山重忠討伐の際には、先陣を切るなど武士としても優れていた。(『鏡』1205(元久二)年6月22日条)学問や芸事にも優れていたようで、1213(建暦三)年2月2日には、新たに発足した学問所番にも選ばれている。承久の乱(1221)では、有名な政子の演説文を代読し、自らも参陣した。また、孫である北条時頼(※1)と謀って三浦一族を族滅させている(1247年、宝治合戦)。
1219(健保七)年1月27日、実朝が公暁に暗殺されると、翌日には出家し、覚地とか大蓮房を称した。高野山に入り、実朝の首が埋められたとも言われる金剛三昧院(こんごうざんまいいん)を建立している。頼朝の死後、出家し蓮西と称した父盛長を彷彿とさせる出来事だ。
三浦一族を族滅させた翌年、1248(宝治二)年5月18日、高野山で亡くなった。極官(※2)は従五位下出羽権介(ごんのすけ)。
※1 時頼の母松下禅尼は景盛の娘。三浦一族族滅後、安達一族は御家人の最有力となる。
三浦一族は、義村(山本耕史)の子泰村代で族滅する。
※2 自らが就いた最高に高い官位。