『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先走りコラム その108
第27回 鎌倉殿と13人
今回は、第28回『名刀の主』に関連する結城朝光(高橋侃(なお))について
(『前賢故実』:江戸後期から明治にかけて編纂された伝記集)
今話で実衣(阿波局:宮澤エマ)に琵琶を教える場面で登場した結城朝光。彼は、第28回の山場である梶原景時(中村獅童)の変に大きく関わっている。
結城朝光は、1167(仁安二)年、下野国(栃木県)の大豪族小山政光(おやままさみつ)の子として生まれた。母は、頼朝(大泉洋)の乳母だった寒河尼(さむかわのあま)。これまでも書いてきたように、当時乳母というのは武士たちの離合集散原理の大きな柱となる。母が頼朝の乳母であった関係から、朝光は頼朝を烏帽子親とし、頼朝の『朝』を偏諱して朝光となった(最初は宗朝と名乗っていたらしい。)烏帽子親、烏帽子子についてもこれまで書いてきたように、武士たちの離合集散原理の柱の一つ。朝光は、頼朝と結びつく超重要な関係を2つも有していたことになる。
(寒河尼:「小山寒河尼画像」(森戸果香筆、県立博物館蔵))
朝光は、『鏡』1180(治承四)年10月2日条に初登場する。石橋山で敗れた頼朝が、安房に逃れ、行く先々で仲間を増やし、隅田川を渡る頃には3万騎の大軍勢になっていたその時、朝光は頼朝の宿舎にやってきた。『鏡』は同日条で「頼朝の乳母で故八田宗綱の娘(小山下野大掾(※1)政光の妻で寒河尼)が最愛の末っ子を連れて頼朝の宿所にやってきた。すぐに御前に呼び出して、思い出話に花を咲かせた。尼は、息子を頼朝の近侍(お側仕え)にしてほしいと望み、頼朝もすぐにその子を呼び出して、自らが烏帽子親となって元服させた。そして、小山七郎宗朝と名付けた。(後に朝光と改名)数え歳14歳だった。」と記している。
朝光は頼朝の近侍として、寺社参詣時のお供兼ボディーガードや、弓の名手であったので頼朝寝所警護など様々な場面で『鏡』に顔を出している。特に、1183(寿永二)年に起きた野木宮合戦(※2)で勲功を立て、下総国(※3)結城郡を与えられ、結城氏を名乗ることになる。
ここからは、第28回のネタバレを含みます!
1199(正治元)年10月25日、朝光は将軍御所の控えの間で、夢のお告げがあったとして、今は亡き頼朝のために一人一人が一万回『南無阿弥陀仏』と唱えるように周囲に勧めた。さらに朝光は周囲の者に「故実によると、忠義な家来は二君に仕えないという。特に私は、頼朝様から厚い御恩を受けた。頼朝様がお亡くなりになった時、遺言だったので出家隠居できなかったことを今になって悔やんでいる。最近の政(まつりごと)は、薄氷を踏むような不安定な毎日だ。」と漏らした。(『鏡』同日条)さらに『鏡』は、「頼朝の時代に朝光は、他に比べるものが無いくらいにお側仕えをしていたので、そのことを懐かしく思うのは、誰でもわかることなので、聞いていた周囲の者たちは涙した。」と記している。
しかし、朝光のこの言葉が大きな波紋を起こす。同月27日、阿波局(実衣:宮澤エマ)が朝光に「梶原景時の讒言で、あなたは将軍から殺されてしまいます。あなたの二君に仕えずという言葉が、頼家を馬鹿にしたように受け取られ、今の将軍である頼家に敵対しているから、見せしめのために早く死罪にするように頼家が言っています。」
狼狽しつつ朝光は、親友だった三浦義村(山本耕史)に相談する。朝光は、自分の発言は謀反を起そうとしたものではない。そのように受け取られるのは無念だと義村に伝えた。義村は「事態はすでにあらぬ方向に進んでいる。熟考して方策を考えなければ、その災いを取り除くことはできないでしょう。景時の中傷、讒言によって、命を失ったり、職を解かれた者は数えきれない。中には今でも恨み憎んでいる者、先祖の怒りを持ったままの者もいる。安達景盛も先日殺されそうになった。(私のコラムその107参照)これら全て、景時の中傷、讒言から起こっていることだ。長年積み重ねられた悪い慣習を糺しましょう。景時は世のためにも将軍頼家のためにも排除しないわけにはいかない。その方策を年長者たちに相談してみよう。」と言った。
義村は、各所に使いを差し向け、すぐに和田義盛(横田栄司)、安達盛長(野添義弘)らがやってきた。義村は事の始終を話した。話を聞いた二人は、「早く思いを同じくする者たちの署名を募って、将軍に訴えようじゃないか。事実に反する悪口を言って、人を貶めるような奴がのさばって、他の御家人が蔑ろにされてはならない。まず訴えて様子を見、何もしてくれないのであれば、武力で解決するしかない。訴状を誰に書かせようか。」と言った。義村は、「中原仲業は文章もうまく、日頃から景時に対して恨みを抱いている」と言い、仲業を呼び出した。仲業は「私の長年の恨みを晴らしたい。多すぎて書ききれないかもしれないが、筆を励さずにはおられません」と言って引き受けた。
翌28日、午前10時頃、景時を糾弾する御家人たちは、一致団結して心変わりしないことを誓うため、鶴岡八幡宮の回廊に集結した。そこに仲業が書いた訴状を持ってきて、皆の前で読み上げた。その訴状には「鶏を飼っている者は、鳥の天敵である狸を飼わない。家畜を飼っている者は、点滴の山犬を飼わない。」という文言があった。この文言には義村が感心したという。その後、訴状(連判状)に御家人たち66名が署名した。朝光の兄宗政は、名前は書いたが花押(サイン)はしなかった。このことを『鏡』は、弟朝光を助けるためにこれほど多くの者たちが力を貸してくれているのに、兄として何事かと批難している。
訴状は、すぐに和田義盛と三浦義村が大江広元(栗原英雄)に託した。翌11月10日、託された広元は困惑していた。確かに景時は讒言で人の足を引っ張ってはいる。しかし、頼朝に時代には信任され、親しく打ち解けていた。それを簡単に罪人とするにはとても気の毒なので、内々に和解することはできないのかと。悩んでいた広元は、訴状(連判状)を将軍頼家に見せていなかった。たまたま御所で和田義盛と会った時、義盛から訴状を将軍に見せたのかと問われ、まだ見せていないと答えた広元に「あなたは何年もの間、幕府の参謀・相談役として働いている。景時個人を恐れ、御家人たちの鬱憤を蔑ろにするのは道理にかなわない」義盛がと言い寄り、将軍に訴状を見せ、話をすることを約束させた。広元は10日以上悩んでいたことになる。
翌12日、広元は将軍頼家に訴状(連判状)を持参した。頼家はこれを見て、すぐに景時に訴状を渡し、内容について申し開きをするよう命じた。翌13日、景時は訴状に関して根にも弁解することなく、一族(三男景茂は鎌倉に留まった)を引き連れて、相模国一の宮寒川神社へ下った。同月18日、騒動の最中、頼家は比企能員(佐藤二朗)邸で蹴鞠を催した。その場で景茂は頼家から父景時のことを詰問された。景茂は、「父景時は、頼朝の時代には可愛がられ、他の御家人たちを超えていましたが、今は特別扱いもされていないので、何を拠り所に無道を働くことができましょうか。仲業が書いた訴状に弁解をしないのは、署名したお歴々の弓矢を恐れているからです。」と答え、周囲の者たちを感心させた。
翌12月18日、それまで連日訴状に関して議論をした結果、景時の鎌倉追放が決定された。これを受けて、景時は相模国一の宮の寒川神社に向かい、鎌倉にあった屋敷は解体されて、永福寺の坊さんの家として寄付された。
(相模国一の宮寒川神社)
1200(正治二)年1月20日、朝の8時頃、原宗房という者が使いをよこしてきた。それによると、景時は一の宮で砦を築き、防御の備えをしていたが、昨夜午前2時頃、一族を率い、幕府への謀反のためにこっそりと京へ上ったらしいとのこと。その報を受けて、三浦義村、比企義和、糟谷有季、工藤行光ら軍が派遣された。午後11頃、景時たちが駿河国(静岡県)清見関を通りかかると、弓の的あてゲームために集まっていた近隣の武士たちと遭遇した。武士たちは景時一行を怪しみ、次々と弓を射始めた。景時らは、狐崎(きつねがさき)で応戦。激戦が展開されたが、景時らは首のない死体となって発見された。翌日、山中の捜索で見つかった33の首は晒された。
1月23日、三浦義澄(佐藤B作)が74歳で亡くなった。その日の午後6時頃、駿河に派遣されていた武士たちと共に駿河の武士たちも鎌倉に来た。そして景時一族の顛末が報告された。
景時は、矢部小次郎に、三男景茂は吉川小次郎に、嫡男景季、次男景高は矢部平次の手下に討ち取られた。景時は予てから、万が一、秘密裏に京へ上ることになった時、駿河国一番の勇者吉川小次郎の館の前を無事通り過ぎることができれば、あとは怖い者はないと言っていたと『鏡』は伝える。
これが石橋山の戦いで頼朝の命を救った梶原景時の最期である。
※1 大掾(だいじょう)は、律令制下で国司(今の県知事)は、上から守(かみ)・介(す
け)・掾(じょう)・目(さかん)の4つのグレードがあり、特に大国の場合は、大掾、
少掾に分けられていた。つまり、政光は下野国の中でNo.3の上位にあったということ。た
だし、当時は律令制は崩壊していたので形式的な呼び名と考えられる。
※2 頼朝と志田義広らとの合戦。このかっ背に勝利した頼朝は、関東では磐石となった。
※3 千葉県の北部と茨城県南西部、東京都東部を含む地域