『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その102
第24回 変わらぬ人
今回は、『吾妻鏡』に見る陳和卿(ちんなけい:テイ龍進)について
番組のH.P.では、宋の技術者という肩書きで紹介されている陳和卿。彼はどのような動きをし、幕府とどんな関わりを持ったのかが今回のテーマ。
今話の中で東大寺大仏殿落慶供養のために上洛した頼朝(大泉洋)との面会を拒絶した陳和卿。わずか40秒ほどの場面だったが、この陳和卿は、幕府にとって後々トラブルメーカーとなる。頼朝存命中に出てくるのは今話だけだが、『鏡』でもう少し詳しく見てみよう。
『鏡』1195(建久六)年3月12日条は以下の通り。
早朝、頼朝は牛車で大仏殿にやってきた。頼朝と共に上洛した数万にも及ぶ御家人たちは、頼朝の身辺と辻々を警備していた。(中略)天皇、摂関家(九条兼実(ココリコ田中)ら)や貴族たちが列席する中、午後2時ごろ大仏の開眼供養の儀式があった。(中略)平家の焼き討ちによって焼失した東大寺は、後白河法皇が重源上人にその再興を命じた。重源は、1183年4月19日に宋の陳和卿に大仏の頭の鋳造を任せた。和卿は、同年5月25日から三十数日をかけ、銅を溶かすこと14回も繰り返し、型に流し込む作業をやり遂げた。そして、1185年8月28日、後白河法皇自らが筆を執り、大仏の目を書き込んだ。
(重源上人坐像:東大寺蔵)
同13日条は以下の通り。
頼朝は、和卿があまりに見事な大仏を作ったので、重源に和卿と面会する仲立ちを依頼した。しかし、和卿は「平家追討時、たくさんの人を殺めた頼朝の罪は深く重いので会いたくない」と固辞した。頼朝は、そのような和卿に感涙を流し、奥州征伐時に着用していた鎧兜と鞍を乗せた馬三頭、そして金銀を贈った。和卿は、鎧兜を大仏殿建立の釘代として納め、鞍の一つは、寺の儀式の際の乗換用の馬の鞍として寄付し、それ以外は全て頼朝に返した。
(頼朝には会いたくないと言った場面:左は九条兼実(ココリコ田中)
この13日条に書かれていたことが、今話の中で描かれた。ドラマの中では、和卿が頼朝のことを「仏から見放された」と言っていたが、それは頼朝が死ぬ次回への前振りだと思う。
この一件後、20年ほど和卿の名は『鏡』から消える。次に登場するのは、1216(健保四)年6月8日、すでに頼朝、二代将軍頼家はこの世になく、三代将軍実朝(柿澤勇人)の時代になっていた。
(三代将軍源実朝:『國文学名家肖像集』:古代から近世の著名な文学者の肖像を集めたもの)
和卿は、「現在の将軍(実朝)は、仏の化身だから、ぜひお会いしたい」とやってきた。同15日、実朝は御所で和卿と面会する。和卿は実朝を三度拝んでボロ泣きした。あまりに礼を尽くされたので、実朝が気兼ねするほどだった。和卿は「あなたの前世は、中国宋の医王山阿育王寺(※1)の開祖です。私は前世にその方の門弟でした。」と言った。この事は、実朝が6年前に見た夢の内容と同じだったので、実朝は自らの信仰心をさらに深めた。
同年11月24日、実朝は前世に住んでいた医王山を拝みたくなったので、中国に渡るための船の建造を和卿に命じた。この時、義時(小栗旬)は実朝を制止しようとしたが、実朝は言うことを聞かなかった。その5ヶ月後、1217年4月17日、船は完成した。数百人の人夫を動員して、その船を由比浦(由比ヶ浜)に浮かべようとした。実朝も義時も立ち会っていた。和卿の指示で皆が船を引っ張った。昼頃から夕方4時くらいまでかけて船を浮かべようとしたが、この浜は浅瀬なので浮かべる事ができなかった。仕方がないので、皆帰っていった。船はこのまま放置され、朽ち果てていった。
(由比ヶ浜:大晦日に告白の場として選んだものの、初日の出を眺める人たちで溢れていて、全くムーディじゃなかったのでやめた記憶が蘇った笑)
実朝の夢は実現しなかった。側にいた義時の渋い顔が目に浮かぶようだ。
今回の大河ドラマが1221年の承久の乱が最後の山場だとすると、今回書いた事は10月あたりに描かれるかもしれない。この後の陳和卿はどうなったかはわからない。
※1 いおうさんあいくおうじ。中国浙江省寧波(ニンポー)にある禅寺。『阿育王』は、仏教を保護奨励したインドのアショカ王のこと。