『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その72 | nettyzeroのブログ

nettyzeroのブログ

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』に特化したブログ。
からの〜徒然なるままに・・・

『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その72

第16回 伝説の幕開け

今回は、宇治川の戦いについて

 

宇治川古戦場跡

(宇治川古戦場:京都宇治:宇治橋付近)

 

 宇治川を挟んで対峙した義経(菅田将暉)軍と義仲(青木崇高)軍。義経は、合戦を前に軍議を開く。その中で、義経は、畠山重忠(中川大志)に「畠山、先手を率いて川を渡れ」と命じる。重忠は、「敵の矢の格好の的になりますが」と疑問を呈す。それに対して義経は、「案ずるな。敵の目は他に向ける。強者を二人選び、ここで派手な先陣争いをさせよ。敵の目がそちらに注がれている隙に、畠山勢が川を渡る。」という策を提示する場面があった。

 

 劇中ではナレーションだけで終わった宇治川の戦いだが、『平家物語』には有名な宇治川先陣争いの話があるので紹介したい。

 

京阪・宇治駅周辺 宇治川先陣之碑 | ぐうたらたぬき途中下車 - 楽天ブログ

(宇治川先陣争の碑:京都宇治:1931年建立)

 

 そこには2匹の名馬が関わっていた。『いけずき』と『するすみ』。ともに頼朝(大泉洋)秘蔵の名馬である。『いけずき』は、「生食」とも「池月」とも言われる。「生食」は馬も人も払い除けるように噛みつくほど荒々しいという意味、「池月」は池に映る月のように美しいという意味。『するすみ』は、『磨墨』。墨のように黒く精悍な姿という意味。そして双方ともに馬体が大きく逞しかった。もちろん、馬同士が先陣争いをする訳はなく、その馬に乗っている二人の武将の間に先陣争いをする要因があったのだ。その二人とは梶原景季(柾木玲弥)と佐々木高綱(見寺剛:以前登場した老兵佐々木秀義(康すおん)の四男)だ。

 

池月の絵馬

(いけずきの大絵馬:千束八幡神社:東京都南千束:いけずきについては、各地に発祥の地があるらしい)

 

磨墨(名馬磨墨之像:岐阜県群上市道の駅明宝:馬上は梶原景季)

 

 景季は『いけずき』に一目惚れし、頼朝に所望したが、万が一、頼朝が出陣しなければならない時に乗る馬だという理由で、勝るとも劣らない『するすみ』が代わりに与えられた。その後、頼朝は出陣の挨拶にきた佐々木高綱に『いけずき』を与えた。『平家物語』も「いかが思し召さらん」、つまり「訳わかんな~い」と記す。この時、高綱は「この御馬で宇治川を真っ先に渡りましょう。もし私が『宇治川で死んだ』とお聞きになったら、他の者に先を越されたと、『まだ生きている』とお聞きになったら、先陣を果たしたとお思いください。」と頼朝に言上した。周囲にいた者たちは、「大言壮語な言いようだ」つまり、「よく言うよ」と囁き合ったという。この頼朝の「訳わかな~い」気まぐれが、『平家物語』の中でも名場面の一つと言われる宇治川の先陣争いの要因となった。

 

 鎌倉を発った軍勢が、駿河国(静岡県)浮島ヶ原に差し掛かった時、景季は自分が拝領した『するすみ』に勝る馬はいないと得意げに自軍の馬たちを見ていた。すると、『いけづき』に似た馬がいたので、「これは誰の馬か」と尋ねると「佐々木殿(高綱)の馬だ」と言う。景季は心穏やかにいられず、自分の願いよりも高綱の願いを聞き入れ『いけずき』を与えた頼朝を恨み、高綱と一騎討ちして、刺し違えて有能な武士が二人死んで頼朝に損をさせようとまで考えた。

 

佐々木高綱 - Wikipedia

(伝佐々木高綱肖像:和歌山県高野町泰雲院蔵)

梶原景季 - Wikipedia

(梶原源太景季:歌川国芳:江戸時代末期)

 

 景季は高綱に近づき、「『いけずき』を拝領したそうだな」と尋ねる。すると高綱は、「景季殿が所望してもいただけなかった『いけずき』を、自分がお願いしても決していただけないだろうと思い、どんな咎めも受ける覚悟で夜な夜な下人と共に盗んできた」と嘘をついた。景季は「羨ましいことだ。そんなことなら自分が盗んで来ればよかった」と笑いながら離れていった。

 

 景季と高綱は、戦では範頼(迫田孝也)の本隊ではなく、義経の別働隊に配置された。宇治川に架けられていた橋は義仲軍によって取り外され、川底には乱杭(らんぐい:不規則に打ち込んだ杭)を打って大きな網を張り、逆茂木(さかもぎ:木の枝の先を尖らせた防御柵)が仕掛けてあった。雪解け水で川は増水し、白波が立ち、逆巻く水の流れも速かった。そして夜明け間際には、川霧が深く立ち込め、馬も武者もはっきりとは見えなかった。

 

 義経はその状況を見て、周囲の者たちに「どうする?」と尋ねた。すると畠山重忠が、「この川は突然現れたものではなく、軍議の時からわかっていた川。近江の湖(琵琶湖)から流れ出ている川なので、いくら待っても水かさは減ることはない。自分が瀬踏み(水の深さを調べること)しましょうか」と提案する。

 

 その時、平等院の北東、橘小島が崎から景季と高綱が馬を走らせて現れた。双方ともに先陣に執念を燃やしていたが、景季は高綱より一段(約10 m)ほど前にいた。すると高綱が、「この宇治川は、西国一の大河。(景季の)腹帯(鞍を馬に固定するベルト)が緩んでるようですから締め直しなされ」と景季に言ったので、景季も馬の歩みを止めて腹帯を締め直した。

 

 その隙に高綱は、『いけずき』と共にざぁっと川に入った。景季も即座に続いて川に入り「功名を上げるために焦って失敗するな。川底には網が張ってあるぞ」と言ったので、高綱は太刀を抜いてその網を打ち切りながら、川の速さをもろともせずに一直線に対岸に渡ってしまった。景季は、川に流れに押し流されながら、高綱のはるか下流の対岸に着いた。

 

宇治川先陣争図(宇治川先陣争図:歌川貞秀:江戸後期)

 

 高綱は、「宇多天皇から数えて九代の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣である。我と思わん者はかかって来い」と名乗りを挙げ、突撃していった。

 

 高綱先陣の名乗りに勢いづいた義経軍は、畠山重忠500騎を先頭に宇治川を渡り、義仲軍に勝利した。乗り手の腕にもよるが、宇治川の戦いでは『いけずき』が『するすみ』に勝ったのだ。