『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その70 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その70

第16回 伝説の幕開け

今回は回収されなかった矛盾について。

 

 三谷幸喜は、木曾義仲(青木崇高)を『義』の人として描いた。これまでの木曽の山猿的な義仲像を大きく変えたと言える。また今話では、義仲追討にやってきた義経(菅田将暉)に対して、一緒に平家を倒そうという手紙も送った。最後まで、頼朝(大泉洋)とともに平家を滅ぼそうとしていた義仲として描かれていた。

 

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 番組冒頭、頼朝は自らの追討の院宣が出たことに対して、義仲追討を決断した。院宣が発せられた裏に義仲がいると判断したからだ。

 

 頼朝追討の院宣発給させた義仲と『義』の人で、頼朝とともに平家を倒そうとしていた義仲。この矛盾が今話では回収されていない。敢えて言えば、義経が義仲の使いの首を切り、義仲に送りつけたことで、義経の側から引導を渡したように描かれている。義経は義仲を挑発する目的だったので、義仲の申し出を受け入れる気は鼻からないが。

 

 しかし、元はと言えば、法住寺殿に後白河法皇(西田敏行)を襲って幽閉し、義仲が、頼朝追討の院宣を強要したことが全ての始まりである。この点が回収されないまま、義仲は『義』の人として、そして女武将巴(秋元才加)を落ち延びさせた優しい武将として今話で討たれてしまった。

 

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 頼朝を追討しようとしている人が、頼朝の代官として来た義経とともに平家を一緒に討とうというのは、『義』というより『欺き』ではないのか?自らを有利にしようとするその場凌ぎの戦略とも言えるのではないか?

 

 『吉記(きっき:公家吉田経房の日記)』1183(寿永二)年12月10日条に「頼朝を追討すべきの由、宣旨を改め院の廰の御下文を成し下さると。」とあり、天皇や太政官の命令ではなく、院政を行う役所である院庁の命令(つまりは後白河法皇(西田敏行)の命令)として頼朝を討つことが決められた。このひと月前の11月3日、京には義経が5,000騎を率いて鎌倉を出立したという報告が届く(『玉葉』同日条)。義仲は、平家との戦いに苦戦していたので、東西挟み撃ちに会うことを恐れ、平家と和睦した(『玉葉』同年12月2日条)。義仲はこの時点で義経との戦、つまりは頼朝との戦を想定したいた。そして11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇の幽閉、頼朝追討の院宣発給へと続いていく。

 

 おそらく次回、義仲の嫡男義高(市川染五郎)が頼朝によって殺されると思うが、その時にこの矛盾が回収されることを期待したい(※義高についてはその60参照)。ちなみに、巴はやはり和田義盛(横田栄司)が娶るような感じでしたね。(※巴については、その59参照)