『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その63
第14回 都の義仲
今回は『平家物語』(以下『平家』と略す)に見る都の義仲(青木崇高)について。
入京した義仲を『平家』は、朝廷の使者として度々都と鎌倉を行き来していた中原康定の言葉で次のように記している。
鎌倉の頼朝は立派な人物だが、義仲は都を警護してはいるが、日頃の所作が無作法で、言葉遣いも悪く、まるで教養がないことこの上ない。2歳から30歳まで信濃の木曽という田舎にいたので、都のしきたりを知らないのも無理はないが・・・と。
また、巻第八「猫間」にある義仲は次のようである。
ある時、猫間中納言藤原光隆が義仲に相談事があり、屋敷を訪ねた。取り次いだ家人から「猫間殿がお目にかかり、相談したいことがあるそうです。」と聞いた義仲は、「猫が人に会いに来るのか?」と。家人から「猫間の中納言という方で住んでいる場所が、猫間(京都市下京区七条壬生通)で、猫間殿です。」と言われ、猫ではないことに気づく。さらに、猫間殿と言えず、「せっかく猫殿が来たんだから、食べ物を出せ」と家人に命じる。これを聞いた猫間が、「(食事時に)あってはならない失礼なことを」と言うと「せっかく食事時に来たのに、気を使うことはない」と猫間に新鮮だからと塩漬けにしていない平茸を田舎風の大きな窪んだ器に他に三種のおかずとともに盛って、「早くお食べなさい。さあさあ。」と勧めた。猫間は、器が汚らしかったので食べないでいると、義仲は「(私が心身を清める時の)潔斎用の器だ」と言った。さすがに箸をつけないのも失礼かと思った猫間は、食べるマネをした。すると義仲は、「猫殿は少食で、猫が食べ残しをした。さぁ、遠慮なく掻き込みなさい。」と強く勧めた。猫間光隆は興醒めして、相談事を何もせずに急いで帰ってしまった。
今話の中で牛車から飛び降り都人に笑われる場面があったが、これも『平家』に出てくる。
義仲は偉くなったので、狩衣(かりぎぬ:公家の普段着)を着込んだが、全く似合わず見栄えがしなかった。牛車に乗ると牛飼いが牛に一ムチ入れたので、牛車は飛ぶように走った。中に乗っていた義仲は仰向けに倒れ、左右の袖を広げて起きようとするも起きられず、バタバタと羽を広げた蝶のようであった。義仲は牛飼いに「やれ、やれ(昔の掛け声:今のおい、おい)」と言うが、牛飼いはもっと早くやれ!と勘違いし、さらに高速に。追いかけてきた今井兼平(義仲家人)が「なんでそんなに速いのか」と牛飼いに聞くと「鼻っ柱が強い牛なのです」と答え、義仲には中にある取手に捕まってくださいと言った。義仲はその取手にしがみつき、「これは素晴らしい仕掛けだ。お前の計らいか?それとも宗盛殿(義仲は宗盛の牛車に乗っていた)のやり方か」と質問をした。また、降りる際も前から降りてくださいと言われたのに言うことを聞かず、
後ろから降りてしまうなど、滑稽なことがたくさんあったと。
(今井兼平肖像画 徳音寺蔵)
後白河法皇(西田敏行)をはじめ都の貴族たちが、頼朝への期待を膨らませていくのは、こうした義仲の姿を見聞きしたことに大きな要因があった。