『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その61
第14回 都の義仲
九条兼実(藤原兼実:ココリコ田中直樹)について(その1)
まずは兼実のご先祖様の話から。
鎌倉時代初期の貴重な一級史料『玉葉』を遺した九条兼実。兼実の家系は、大化の改新で中大兄皇子に与した中臣鎌足に始まる。鎌足はその死出の旅立ちの時、中大兄皇子から『藤原』の姓を賜る。摂関政治で有名な藤原氏の始まりだ。その後、藤原氏は天皇家との血縁関係を通じて、朝廷内に確固たる地位を確立していく。
(『多武峰(とうのみね)縁起絵巻』奈良県桜井市 談山神社蔵:大化の改新で蘇我入鹿(中央)の首を刎ねる中大兄皇子(右):入鹿の首が飛んでいる)
奈良時代、藤原氏は四つの家に分かれる。藤原四家もしくは藤原四氏と言われる、南家(なんけ:祖は武智麻呂(むちまろ))・北家(ほっけ:祖は房前(ふささき))・京家(きょうけ:祖は麻呂)・式家(しきけ:祖は宇合(うまかい))だ。四家初代は相次いで流行病で亡くなった。まず、北家の房前が天然痘に感染、兄弟の大事ということで見舞いに訪れた兄弟3人も次々感染し、わずか数ヶ月の間に次々と逝ってしまった(737年)。
その子孫たちはさまざまな政争の中で淘汰され、房前を祖とする北家が繁栄を極め、摂関政治を現出する。ご存知のように、摂関政治とは、藤原北家の娘を天皇に入内させ、生まれた男子を天皇とし、自らは天皇の外祖父(母方の祖父)として政治に大きな影響力を持つ形。高貴な家に生まれた子供は、母方の家で育てられるという当時の慣習あっての政治形態と言える。成長期に多大な影響を受けた母方のおじいちゃんを天皇になってからも頼りにするというもの。
摂関政治は11世紀後半、藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位によって、全盛は去り、さらに1086年、白河天皇が8歳の息子堀河に譲位して元天皇として影響力を持つ『院政』が始まり、摂関家藤原氏の凋落に加速がつく。形式的に摂政・関白は任命されるものの、実権は治天の君と言われた元天皇=上皇(上皇が出家した時、法皇となる)に移っていく。これは、摂関政治時代の母系から院政時代の父系に政治権力が移行する大きな転換点となった。
その後、藤原北家も多岐に別れ、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ:藤原氏の家督権を継ぐ者)の地位を巡って対立、争いが起こる。1156年の保元の乱は氏長者の地位をめぐる藤原氏の内紛が原因だ。そして、保元の乱で勝利した藤原忠通の六男として生まれたのが、九条(藤原)兼実である。続く。