『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その60
第13回 幼ななじみの絆
今回は、木曾義仲の嫡男義高について。
(ネット上で美しすぎると話題になった市川染五郎の義高)
1183(寿永二)年3月、一触触発だった頼朝(大泉洋)への人質として義仲(青木崇高)は、11歳の嫡男義高(市川染五郎)を差し出した。頼朝も義仲に遺恨なしとし、義高を自らの猶子として鎌倉に連れ帰った。その後、義高は、当時6歳だった頼朝長女大姫(南沙良)の許嫁として鎌倉で過ごした。幼い大姫にとっては、初めて思いを寄せたのが義高だった。11歳の義高と6歳の大姫。幼い二人は、遊びのように将来のことを色々と夢見ていたのかもしれない。
二人の平穏な時は、長くは続かなかった。翌寿永三年、義高の父義仲は頼朝が派遣した範頼(迫田孝也)・義経(菅田将暉)軍に敗れ、近江国粟津(滋賀県大津市)の戦いで討死した。
(源義仲)
義仲の死から3ヶ月後の4月21日、頼朝は義高謀殺の命を下す。頼朝に父義仲を殺されたと知ったら、義高は頼朝に刃を向けるだろうから。これは密議のはずだったが、大姫に仕える女房たちに聞かれてしまい、大姫の知るところとなった。大姫は計略をめぐらし、明け方に義高を逃亡させた。女房姿に変装させ、女房たちに囲まれるように義高は館を出た。途中、隠しておいた馬に乗ったが、その馬には足音を消すため、蹄を綿で包む細工がしてあった。
逃亡をを隠すため、義高に片時も離れず仕えていた海野(うんの)小太郎幸氏(ゆきうじ)が身代わりとなり、帳台(ちょうだい:天蓋付きのベッド)に入り、陽が高くなるといつも義高と双六を打っていたので、一人で双六を打ち、義高がさもいるようにカムフラージュした。
(御帳台)
晩になって、義高逃亡が露見した。頼朝は忿怒(ふんど:激しく怒る)し、堀藤次親家等を各所に遣わし、義高を討てと命じた。これを聞いた大姫は、うろたえ、心を閉ざしてしまった。
5日後、親家は鎌倉に戻り、入間河原において、義高を討ったと頼朝に報告した。密事のはずが、大姫の知るところとなり、大姫は嘆き悲しみ、水断ちをした。政子(小池栄子)も義高の事を知り、娘の気持ちを思い、大いに悲しみ傷んだ。館に仕えていた者たちも皆嘆き悲しんだ。
(清水八幡宮:狭山市入間川:義高終焉の地)
6月27日、大姫が悲しさの余り塞ぎ込み、病に臥せって日々憔悴する姿を見た政子は、義高を討った堀親家の家来を梟首した。全ての原因は、たとえ頼朝の命であっても事前に何も知らせずに義高を殺した親家にあるとして。
亀の前事件のようなとばっちりを受けた親家だったが、ことはこれでは済まなかった。大姫が・・・。大姫については、いつか書きます。お楽しみに。