『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その43
第10回 根拠なき自信
登場人物のおさらい その2
源範頼(迫田孝也)について。
(源範頼像:神奈川県横浜市太寧寺(たいねいじ)蔵:太寧寺は範頼創建の寺)
源範頼は義朝の六男。1150年頃、遠江国蒲御厨(かばのみくりや:静岡県浜松市)で生まれた。そのため、蒲冠者(かばのかじゃ:冠者とは若者という意味)と呼ばれた。母は、遠江国池田宿(静岡県磐田市)の遊女。ちなみに、義朝の長男義平の母も京都郊外橋本宿(京都府八幡市)の遊女という説がある。後、父義朝が平治の乱で敗れたため、後白河法皇(西田敏行)の近臣だった藤原範季(のりすえ)に養育された。名前の『範』の一字は、範季からの偏諱である。
御厨とは、伊勢神宮の管理下にある荘園のこと。もともと蒲神社神官の蒲氏が管理していた荘園だったが、国司などの圧力に対抗するため、伊勢神宮に寄進して御厨となった(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブより)。
(蒲神社(神明社):静岡県浜松市)
範頼は、『鏡』では先陣争いで御家人と乱闘したり、喧嘩好きで穏やかでない人物と評されている(1184(寿永三)年2月1日条)。
一方、『平家物語』や『源平盛衰記』には凡庸な人物として描かれている。どちらが本当なのかはよくわからないが、凡庸というのは、あまりに強烈な印象を持って語り継がれた弟義経の影響があるのではないかと思う。今話の中で、金砂城攻めの策を問われた際、兵糧攻めを提案し、却下されている場面を見ると、三谷氏は『平家物語』や『源平盛衰記』寄りに描くのではないかと思われる。
治承・寿永の内乱において範頼は、義経のような派手な活躍は見られない。しかし、その反面、頼朝の考えや心情そして自分の役割や従った武士たちを十分に理解していたからこそ、地味ではあるが着実に平家を滅亡に追い込んでいくことができたのではないかと思う。
私はどちらかというと、自分の命を捧げると約束して、戦功は立てたものの好き勝手をやって兄に疎まれた空気の読めない義経よりも、地味だが堅実な範頼を評価したい。
平家滅亡後も範頼は、頼朝の弟としてその役割を忠実に果たしていた。しかし、1193年5月の曽我兄弟仇討ち事件の時、彼の運命は大きく動く。
仇討ちのどさくさの中で、頼朝までも討ち取られたという噂が流れた。御台所政子の動揺と落胆を見た範頼は、多分、励まそうという意図があったのだと思われるが、「兄の跡には私が控えています」と言った。これは、範頼に謀反の疑いありと判断され、頼朝によって伊豆修禅寺に幽閉された。その後、誅殺されたとも言われるが、詳しいことはわからない。
(修禅寺:寺名は”善”ではなく、”禅”:後、2代将軍源頼家もここに幽閉され、謀殺される)