『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その34
第8回 いざ、鎌倉
三谷流壮大な前振りについて その1
このコラムの中で今までも三谷流壮大な前振りかもという表現をたくさん使わせていただいた。第8回にも、それと思しき場面があったので、振り返りつつ、それが何の前振りなのかも含めて見ていきたい。
まずは頼朝(大泉洋)と全成(新納慎也)のやり取りから。
『鏡』によると、全成は1180(治承四)年10月1日、京の醍醐寺を出て頼朝の元にやってきた。頼朝は感涙の涙を流したという。
第8回では、鎌倉での頼朝邸建設場所を巡って、全成は、日本版ダウジングを駆使して頼朝が望む大倉の地を良い場所と断じた。一方で、政子(小池栄子)を鎌倉に迎える日については、亀(江口のりこ)と❌❌したい頼朝は、義時(小栗旬)の言った明日ではなく、明後日を熱望。全成は、「明後日は庚寅(こういん:かのえとら)。庚寅に家移しした家には不幸が訪れると言われております。親子の縁が薄く、主は不慮の死を遂げると」。全成の宿曜と易の能力に期待していたはずの頼朝は、その結果を受け入れず、政子の鎌倉入りは日延べとなった。
『鏡』では、鎌倉の近くまできた政子一行は占いで日が悪いということで日延して、10月11日の卯の刻(午前6時ごろ:早っ!)に鎌倉に入ったと記している。
この全成の占いは、見事に当たることになる。亀との逢瀬が政子にバレて、史上最悪の夫婦喧嘩となるし(後追いコラムその6参照)、3人の子供(大姫(難波ありさ:後、南沙良)は夭折、頼家(金子大地)・実朝(柿澤勇人))はいずれも非業の死を遂げる。
また、頼朝自身、1199年、相模川の橋の供養に出かけた際、落馬してそれが原因で絶命する。全成の占いは、100%的中するのである。
頼朝の死因については、またいつか書きます。先日、NHKで爆笑問題をMCに、『鎌倉殿サミット2022』なる番組内で頼朝の死因ついて、錚々たる学者先生たちが語っていた。結局死因は断定されなかったようなので、私が!!(笑)
頼朝には、専属の陰陽師などがいたので、全成がドラマのように様々なことを占ったかはわからないが、三谷流の壮大な前振りと言えよう。
次のコラムは、三谷流壮大な前振りその2 梶原景時(なかむらしどう)について書きます。