『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その32
第8回 いざ、鎌倉
今回は「武衛(ぶえい)』について
「俺は佐殿なんてよばねぇからな」と言った上総介広常(佐藤浩市)に、三浦義村(山本耕史)が「武衛という呼び方もありますよ。唐の国では親しい人を呼ぶ時にこういうらしいです。武衛。」と教えられ、頼朝ばかりか、全員を武衛と呼ぶ場面。思わずクスッとしてしまった。
一方で、畠山重忠(中川大志)と義村との会話。
重忠「確か武衛と言うのは・・・」
義村「さすがだなぁ。武衛とは兵衛府のこと。」
重忠「むしろ佐殿よりもさらに敬う呼び方ではないですか。」
重忠は武衛と言う言葉の何たるかを知っていたのだ。重忠は清廉潔白で鎌倉武士の鑑と言われるが、学問に関しても精通していたことを示す場面でもあった。余談だが、後に義経(菅田将暉)の愛妾静御前が囚われて、頼朝・政子の御前で舞を舞う時、重忠は銅拍子を奏でている。
荒武者のイメージが強い坂東武者。その典型が上総介広常。武芸ばかりではなく、学問や芸事も嗜む武士の典型が畠山重忠。そんな構図に見えた。
義村が言うように「武衛」とは、兵衛府(ひょうえふ)の唐名。兵衛府とは、皇室の警護等を担う役職。面倒な読み方だと「つわもののとねりのつかさ」。当時皇室の警護職は衛門府(えもんふ)・左右兵衛府・左右衛士府(えじふ)の5つがあった。これを総称して五衛府という。
頼朝(大泉洋)は、1159年、平治の乱のどさくさの中で右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に任じられた。「武衛」は正式名称で、「佐殿」は通称という感じ。だから「武衛」という呼び方は、「佐殿」よりも敬う呼び方なのだ。
「権(ごん)」とは律令(りつりょう:法律)の規定外に任命された時につける文字。学問の神様菅原道真が、都の政変に敗れて大宰府「権帥(ごんのそつ)」として流された例が有名。
実は『鏡』では、頼朝のことを初めから「武衛」と表記している。
官職名を唐名にしたのは、中国かぶれで有名な藤原仲麻呂。おばさんが皇后(光明皇后)であった関係で権力者となり、758(天平宝字二)年に官職名を唐名に変えた。
この仲麻呂を死に追いやったのが、正座すると膝が三つになったと言われる道鏡。なぜ三つかはここでは書けません(笑)江戸時代の川柳に歌われたことです。
道鏡は すわるとひざが 三つでき
(道鏡像:奈良西大寺:こちらは膝二つ(笑))
話が逸れたぁ。お後がよろしいようで・・・