『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その28
第7回 敵か、あるいは
今回は平清盛(松平健)の最期についてのその1。後追いでも何でもなくなってる(笑)
清盛は、頼朝ら諸国の源氏の挙兵の対応に手を焼いていた。
嫡男重盛・次男基盛の夭折後、平家一門の棟梁となった三男宗盛(小泉孝太郎)は自ら軍勢を率いて東国を平定しようとしていた。
そんな中、清盛は病に倒れ、わずか数日で逝ってしまった。1181(治承五)年閏2月4日午後8時頃のことだった。喪に服すため宗盛の東国派遣は中止となった。
当時、暦は太陰暦を用いていたので、2年もしくは3年おきに季節を調整するため一ヶ月間を閏月として加え、一年が13ヶ月となることがあった。治承五年がその年だった。
『鏡』は淡々とその死を伝えるが、『平家物語』のそれはあまりにもリアルで壮絶な描写だ。原文を味わってみよう!( )は読み仮名。
入道相国、病付きたまひし日よりして、水をだに喉へも入れたまはず。身の内の熱き事、火を焚くが如し。伏したまへる所、四五間が内へ入る者は、熱さ耐へ難し。ただ宣(のたま)ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しも只事とは見えざりけり。
比叡山より千手井の水を汲み下し、石の舟に湛(たた)へて、それに下りて冷えたまはば、水夥(おびただ)しく沸き上がつて、程なく湯にぞなりにける。もしや助かりたまふと筧(かけい)の水をまかせたれば、石や鉄などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄り付かず。自づから当たる水は、焔(ほのお)となつて燃えければ、黒煙殿中にみちみちて、炎渦巻いて上がりけり。
(比叡山千手の井(左) ブログ『平家物語・義経伝説の史跡を巡る』より)
※大野のチョー適当な口語訳(笑)
入道相国清盛は、病に臥した時から、水さえも喉を通らなかった。身体中が熱くなり、まるで火がついて燃えているようだった。清盛の寝ている所に7~9メートルほど近付いただけで、入った者はその熱さに耐えられなかった。清盛はただただ「熱い熱い」というだけ。これは只事ではなかった。
比叡山の千手の井戸から水を汲んできて、石の湯船に入れ、そこに清盛を入れて冷やそうとしても、水はあっという間に沸き上がって、すぐにお湯になってしまった。もしかしたら助かるかもしれないと思って、直接、樋(とい)を引いてきて水を体にかけたら、まるで焼けた石や鉄にかけたように、水が勢いよく飛び散って、水を寄せ付けなかった。清盛の体に当たった水は、まるで火炎のように燃え上がって、その黒煙は家中に充満して、炎は渦を巻くように燃え上がった。(その2に続く)