『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その19
第6話 悪い知らせ その3
今回は和田義盛(横田栄司)。番組ホームページの紹介だけでは今後の流れが分かりにくくなるかもしれないので、情報をチョイ足しします。マシマシではないかも・・・。
義盛父義宗(よしむね)は、衣笠城で討死する三浦義明の嫡男つまり跡継ぎだった。彼は、三浦一族の勢力拡大の急先鋒となって奮戦した。
鎌倉から金沢文庫に向かう途中に杉本寺という由緒ある寺がある。実はこの近くに杉本城と言う城があった。ここは三浦一族が鎌倉へと勢力拡大していく拠点だった。義宗はここに館を構え、自ら杉本を苗字とした。頼朝が流されるはるか前の話だ。
義宗は、三浦半島から海を渡り安房国(千葉県)までその勢力を広げた。しかし、長寛元年(1163)に安房国長狭城(長狭郡)を攻めた際、手傷を負い(おそらくは矢傷)、それが元で死んだ。(『平家物語』)系図等によると39歳だった。
頼朝が伊豆に流されたのが1160年だから、その3年後ということになる。
三浦氏は元々安房国平北郡を領していた言われ、東に隣接する長狭郡への勢力拡大を狙ったと思われる。義宗は父義明から嫡男として一族の家督(惣領という)を引き継ぎ、一族の勢力拡大戦略の只中に死んだ。義盛はこの時17歳。まだ一族を束ねるには若かった。
当時、義盛の祖父義明はなんと72歳で健在だった。(1180年に89歳で討死するのでそこから逆算)
義明が嫡男を失った悲痛は容易に想像できるが、義宗の弟義澄(佐藤B作)が三浦氏の家督を継いだ。三浦惣領家の流れはこの時変わった。義盛は相模国(現、神奈川県)三浦郡和田を領地とし、三浦嫡流から庶流となった。跡継ぎが若い時、成長を待つ間、庶流が時間つなぎをすることはよくあるが・・・。
第6話内で安房に逃れた頼朝に「侍大将にしてほしい!」と義盛が懇願する場面。義盛が頼朝の御前に出る時、三浦義村(山本耕史)がきっと睨む場面があった。三浦の惣領にはなれないが、頼朝軍のリーダーになりたいと願う義盛を「庶流のくせに何を言うか」といったように思えた。
後、義盛は初代侍所別当(長官)となり、頼朝軍の総責任者となる。頼朝軍に従った三浦一族も当然その統制下に入ることになる。一族の内紛というわけではないが、あの一瞬のシーンをこんな感じで深読みしてしまった。
後に義盛は、北条の策略によって暴発し、滅ぼされていく。すでに惣領義澄はこの世になく、その子義村は北条方に与した。頼朝挙兵から30余年後のことである。