『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その18 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いブログ その18

第6話 悪い知らせ その2

小坪合戦についての続き。

今回は拙著『鎌倉謎解き散歩』(奥富敬之・大野泰邦共編著:中経出版:2013)で小坪合戦の真相に迫ってみたい。

 

 

『三浦氏と畠山氏が戦った小坪合戦とは?』

 小坪合戦。それはちょっとした行き違いが起こした悲劇だった。

 

 治承四年(1180)8月23日、源頼朝は石橋山(小田原市)で大敗を喫した。翌24日、合戦に遅参し、さらに頼朝敗走の報に接し、心身ともに疲弊していた三浦勢は、これも石橋山の戦いに遅参し、高麗山(平塚市・大磯町)あたりで休息していた畠山重忠軍とは一戦を交えるつもりはなかった。

 

 三浦勢の殿(しんがり)は和田義盛。後に侍所の初代別当(長官)となる義盛は、突如百騎の手勢を引き連れて「我らを押し留めんとおもはば、押し留めてみよ」と重忠軍を挑発した。重忠はすぐに義盛勢を追い、由比ヶ浜北辺で追いついて合戦となった。

 

 義盛は小坪あたりで急ごしらえの防衛線を敷き、杉本城を守る弟義茂(よししげ)に救援を求めた。稲瀬川あたりに陣を敷いた重忠は、長時間の睨み合いは、三浦勢の加勢があり不利と判断し、義盛に和議を申し入れた。重忠は三浦氏棟梁義明の娘が母、義盛は義明の孫、両者は姻戚関係にあったので和議は成立した。

 

 その時、急を知って駆けつけた義茂は、両軍に和議が成立したことなど露知らず、兄義盛が「攻めるな」と手招きしたのを、「攻めよ」と勘違いし、重忠勢を射かけた。

驚いた義盛はさらに「攻めるな」と合図を送るも、義茂は「さらに奮戦せよ」と勘違い。

 

 騙されたと怒った重忠は、義茂勢を包囲した。これを見た義盛は「弟を助けろ」とばかりに参戦。由比の浜辺は大混乱となった。

 

 事の次第に気づいた三浦勢本隊は、小坪峠を通り、戻ってきた。これを見た重忠は、形勢不利と見て、稲村ヶ崎口に向かって退却して行った。以上が小坪合戦である。

 

 畠山勢50騎、三浦勢4騎が討ち取られた小坪合戦。三浦勢の勝利にも見えるが、翌々日、軍勢を立て直した畠山勢に本拠地衣笠城を攻められ、棟梁義明を失うこととなる。

                                (奥富敬之、大野泰邦)

周辺案内|【公式サイト】小坪海岸 凛花 

ドラマでは、和田義盛が三浦義村(山本耕史)、和田義茂が和田義盛(横田栄司)に入れ替わっていたのである。