『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その8 第二話 佐殿の腹
ポイントは『乳母(めのと)』。
高貴な家に子供が生まれた場合に乳を与える女性のこと。異性の子を産んだ女性が選ばれる習慣があった。当然、若い女性だから夫や父がいる。その一族は、乳母の家として名誉ばかりではなく、様々な恩恵に浴する事になる。また、頼朝の父義朝は、板東の地で勢力拡大を図る手段としていた。乳母の家族だけでなく、一族もろとも自らの勢力下に入れようとしていたのだ。
頼朝の乳母はたくさんいた。飲みきれないだろうというほどに。つまり、乳母の仕組みは、武士団の離合集散原理の一つであったのだ。
主だった頼朝の乳母たち。
比企尼(草笛光子)。比企遠宗(とおむね)の妻。流人頼朝を20年以上支えた。その養子が比企能員(よしかず:佐藤二朗)。頼朝を支え、さらに2代将軍頼家(金子大地)の乳母父として、また娘若狭局は頼家の正妻となり、13人の合議制のメンバーの一人となる。
比企尼には娘が三人いて、その夫は頼朝を支える。有名なのが安達藤九郎盛長(野添義弘)。頼朝の側近として既に登場している。政子(小池栄子)に、頼朝が嫌いなもの一覧を渡した人物。また、比企尼の妹の子、三善康信(小林隆)は、頼朝に都の情報を月三回送っていた人物。後に、鎌倉幕府問注所(裁判所)初代執事(長官)となる。
山内尼。山内首藤俊通(としみち)の妻。山内家は、頼朝四代前の源義家時代から源氏に従い、前九年・後三年の役を戦った。
俊通も頼朝の父義朝に従い都での保元・平治の乱を闘うも、平治の乱で討死する。第二話で頼朝に矢を放った経俊(つねとし:山口馬木也)はその息子。
自分は佐殿を支えると言い、頼朝も頼りにしていたが、実際の挙兵の誘いには加勢を拒否したばかりか、数々の罵詈雑言の類を吐いた(『吾妻鏡』治承4(1180)年7月10日条)。
源氏に従ってきた先祖や一族が辛酸を舐めたことが原因と思われる。経俊は後に、頼朝から斬罪にされそうになるが、山内尼の助命嘆願もあって、赦されて頼朝の家来となっている。
複雑な人間関係を視点を変えて乳母から見てみるのも面白い。