『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その7(その6の続き)
頼朝は、11月12日、遊興(飲み会)と称して牧宗親を大多和義久(役者不明)の鎧擦(あぶみすり)の館に呼び出す。そして、宗親の目の前で広綱に事の詳細を尋ねた。宗親はただただ平伏して陳謝したが頼朝は許さず、その場で宗親の髻(もとどり:ちょんまげ)を切り落とし、政子の命に従うのは神妙だが、こんな大事な事は事前に自分に知らせるべきではないかと詰問した。宗親は泣きながらその場を立ち去ったという。
後妻それもデレデレになるほど惚れ込んだ後妻の兄が頼朝によって辱められたということで、時政は激怒。一族を引き連れて、伊豆に引き上げてしまった。つまりはもうこれ以上、北条は頼朝を支えないという意志を示したのだ。
そんな時に発せられた頼朝の言葉が、
江間は穏便の存念あり
だった。
つまり、時政は一時の感情で伊豆に帰ったが、義時はそんな短慮な振る舞いをするような人間ではないという意味でだ。頼朝が言った通り、義時は時政には従わなかった。
頼朝は義時を呼び、「宗親は不埒な事をしたので咎めを受けたのだ。時政が一時の感情に流されて伊豆に帰ってしまうというのは私(頼朝)の本意ではない。義時が私の気持ちを察して、時政に従わなかったことは、まことに感心だ。」と言葉を送った。
しかし、政子の怒りは収まらず、亀の前を匿っていた広綱は12月16日、遠江(とおとうみ:静岡県大井川以西)に流された。
時政、広綱、亀の前がその後どうなったのか、『吾妻鏡』が欠損し不明だが、時政は再び政治の世界に戻ってくる。
頼朝とその政子の夫婦喧嘩は、家臣たちをも巻き込み、とんでもない事件に発展したのだ。
第二話の最後のシーン。頼朝は義時に向かって「良いな、事は慎重に運ばねばならぬ。このこと(挙兵のこと)は兄にも話すな。小四郎、お前がわしの頼りになる弟じゃ」大河ドラマの中でも名場面と言える場面だが、頼朝は義時の沈着冷静さを見抜き、それを信じ、事を進めていった。そして、義時もまた、その中で鍛えられ、幕府を支える人材へと成長していくのである。