「ドクター・ランダーが亡くなった日、彼女はなにか重要なことを調べている途中だったんです。

われわれのプロジェクトに関係したことを。

それをたしかめるために、あの日、彼女と会った人全員に話を聞いているんです。

きょうはそれでこちらに。

できればー」

ミセス・アスピノールは首を振った。

「あの日、ランダー先生の姿は見ていませんわ。

その二日前、夫に会いにいらしたと看護婦に聞きましたけど、そのときはわたしが不在で。

わたしが最後にランダー先生と会ったのは、亡くなる一週間以上前ですから、お役に立てません。

あいにくですが」

「じつは、お話をうかがいたいのはご主人のほうなんです」

「カール?」

ミセス・アスピノールはとまどったような顔になった。

「でも、主人は松田愛実とは会ったこともありませんわ。

こぞんじないかもしれませんが、主人はずっと半昏睡状態で―」

「松田愛実が死んだ日の朝、とつぜん目を覚ました。あの朝、松田愛実はご主人と言葉を交わしています。意識を回復した直後に」

「たしかですの?カールは松田愛実と話をしたなんて一言も」

それから眉間にしわを寄せて、「でも、先生が亡くなったと打ち明けたら、たしかにひどく動転してました。

自分が死ととなり合わせで過ごしていたせいで、それで怯えてるんだろうと思ったけど、でも・・・・・松田愛実が夫と会ったとしたらいつのことでしょう?わたし、主人が意識を回復したと聞いてすぐ病室に駆けつけて、それからはずっとそばにいました」

「十一時半です」

それが正しいことを祈りながら大木一雄は答えた。
ミセス・アスピノールは目の前のドアの中に案内するのをためらうようなそぶりを見せ、それから廊下の突き当たりの部屋に導いた。

居間ではなかった。

田舎造りとはおよそ不似合いな台所。

「紅茶でも召し上がります?」

「いえ、けっこうです。

ミセス・アスピノール、きょう訪ねてきたのは―」

「ランダー先生がお亡くなりになったと聞いて、ほんとうに残念ですわ。

カールにもわたしにもほんとうによくしてくださいました。

よく病室にやってきて、わたしが食事に出られるようにカールを見ててくださって」

悲しげに首を振り、「なんて恐ろしい悲劇。

最近の世の中はほんとにどうしちゃったんでしょう。

暴力沙汰ばかり。

そのせいでカールはひどく動転して」

よかった。

すくなくともカールは知っている。

メイジーのときのように火中の栗を拾う必要はない。

しかし、念のために一応たずねてみた。

「彼女が死んだことはご主人にも?」

「そのつもりはなかったんですけど。

まだ体が弱ってる時期でしたし、カールにとっては知らない人ですから」

詫びるような笑みを浮かべて、「いまだにすぐ忘れてしまうんですよ。

何カ月もずっとカールの世話をしてくださって、わたしがよく知っているかたたちが、カールにとってはあかの他人だってことを」

大木一雄はテーブル越しにキットと目を見交わした。

「でも、看護婦のかたたちの話が聞こえてしまって」

とミセス・アスピノールが話をつづける。

「そのあとグァーダループが病室に入ってきたとき目を泣き腫らしているのを見て、なにかあったんだと気がついたらしいんです。

自分の病気のことでわたしがなにか隠してるんじゃないかと疑われて、それでしかたなくほんとうのことを・・・・・」

「ミセス・アスピノール」

と大木一雄はいった。

雪におおわれたせまい道に車を乗り入れる。

そして、さらに雪が深くさらにせまいべつの道に入り、田舎造りを念入りに再現した山小屋の前で車を止めた。

「嘘みたい」

玄関に向かって歩きながらキットがいった。

「松田愛実がなにを伝えようとしたのか、やっとわかるのね」

玄関に出てきた女性は驚いたような顔で、ちょっと警戒する表情を見せた。

「ミセス・アスピノール?」

大木一雄はとつぜん言葉に詰まった。

頭がおかしいと思われずに来意を説明するにはどうすればいいだろう。

「ドクター・ライトです。

こちらはミズ・ガーディナー。

マーシー・ジェネラルから来ました。

わたしたちはー」

「まあ、どうぞお入りになって」

ミセス・アスピノールはドアを大きく開けた。

「はるばるおいでくださってどうもありがとうございます。

カールは居間におります。

きっと喜びますわ」

大木一雄のコートをとってハンガーにかけ、キットのコートを受けとりながら、「チェリコフ先生がきのういらしてたんですよ。

担当医のみなさんにはほんとによくしていただいて。

わざわざようすを見にきてくださったり」

「ミセス・アスピノールー」

と口を開きかけたが、彼女はすでに、松材張りの長い廊下を先に立って歩きながら、カールの病状を縷々説明しはじめていた。

「びっくりするような回復ぶりなんですよ。

とくにこっちへきてからは。

もう夢でうなされることもなくなったしー」

「ミセス・アスピノール」

大木一雄は居心地の悪い思いで切り出した。

「すみません、誤解なさってるようですが、ぼくはご主人の担当医ではありません」

ミセス・アスピノールは廊下の真ん中で立ち止まり、こちらに向き直った。

「でもマーシー・ジェネラルからいらしたって」

「ええ、そうです。ぼくらは松田愛実・ランダーの友人で。

彼女はぼくの研究プロジェクトのパートナーでした」

「まあ」

論理的に考えれば山道のトンネルを連想するはずだ、と松田愛実はいった。

暗い場所から光の中へ、広々とした空間へと出てゆく感覚。

暗闇からいきなり昼の光の下に出て目が眩むときのような明るさ。

いや、もっと明るい。

強烈にまばゆい光の爆発。

まぶしすぎて、突き刺すような恐怖を感じた。

どうしてこんなにまぶしいんだろう。

助手席のキットは片手を上げて光をさえぎっている。

殴られそうになって身を守っているようなしぐさだった。

ここはどこだ?大木一雄がそう自問したとき、車はトンネルを抜け、そして別世界にいた。

青い空、輝く雪、松におおわれた斜面。

「霧はどうしちゃったんだろう」

キットが不思議そうにいった。

「霧の上に出たんだよ」

と大木一雄は答えたが、斜面を登っている感覚もなかった。

しかし次のカーブを曲がると、谷をすっぽりと包む白い雲の層が眼下に見えた。

「天国」

とキットがつぶやくのを聞いて、自分とおなじことを考えているのがわかった。

「ブザーの音かベルの音みたいな例の音はないけどね」

といったとき、キットの携帯が鳴った。

「ミセス・グレイ、なにかあったんですか?」

キットが電話に出て、心配そうにたずねた。

エルダーケアの女性からだろう。

「あら。

流しの上の食器棚です。

オートミールの箱のうしろ。

のはずです」

キットは《切》ボタンを押し、ほっとした顔で、「砂糖が見つからないって電話」

といった。

それからまたプリントアウトをとり、「最後まで読んじゃったほうがいいわね。

もう着きそうだから」

「訂正。

もう着いてるよ」

大木一雄は《ティンバーライン》と書かれた標識を指さした。

「『・・・・・水・・・・・』」

とキットがつづきを読み上げる。

「『・・・・・ノー・・・・・消された・・・・・』。

それからクエスチョン、コールドマークつきで単語がふたつ書いてある。

『寒い?暗号?』」

「トンネルだ」

と大木一雄はいった。

「トンネル?どうしてトンネルが"コールド"とか"コード"とかになるの?」

「トンネルだよ」

もう一度いって、前方を指さした。

前方の不定形の霧の中で、トンネルがアーチ形の口を黒々と開けている。

「ああ、トンネルね!」

とキットがいったとき、車はその中に突入した。

トンネルは暗かった。

ということは短いはずだ。

アイゼンハワー・トンネルとか、グレンウッド・キャニオンのトンネルとか、距離が長いやつは、内部が金色のナトリウム灯で照明されている。

このトンネルは、ヘッドライトが届く範囲から先は真っ暗で、しかも霧がたちこめていた。

「どうしてよりによってタイタニックを見るの?」

と松田愛実はいった。

「わたしが住んでるのはコロラドよ。

山には何十もトンネルがある」

と。

たしかにそのとおりだ。

こういうトンネルなら、関連は明らかだ。

幅のせまさ、高速で前方に移動してゆく感覚、暗闇。

このトンネルはカーブしているにちがいない。

出口が見えない。

光が見えない。

光。

カーブを通過した感覚はなかったが、どこかで曲がったのだろう。

トンネルの出口が見えてきた。

目が眩むほど明るく、すぐ前方。

大木一雄はとつぜんの純白に目をすがめた。
キットが口をつぐみ、霧を見つめた。

「それでぜんぶ?」

「ううん。

ちょっと考えてたの。

もしかしたら煙が鍵なんじゃないかって」

「あの夜、タイタニックで火事が起きた記録は見つからなかったんじゃなかった?」

「そのとおり。

でも、それひとつだけなのよ。

それ以外で松田愛実が見たものはなにもかもーボートデッキに郵便袋をかついでいった郵便係も、デッキに集まっていた乗客も、信号弾もーみんな現実に起きたことだった。

それに、体育室や大階段や読書室について松田愛実が説明したことは、パット伯父さんの蔵書が出典だと思う」

「でも、煙はちがう」

「そう、煙はちがう。それに霧も。

どっちだかわからないけど、とにかくそれは、現実のタイタニックと符合しない。

それがどうしてなのかを突き止めようとして、答えを見つけたんじゃないかしら。

科学では、それまでの理論にあてはまらないピースが革新的な発見につながったりするでしょ?」

「ああ。あるいは松田愛実は、それが現実に符合しないことを証明しようとしていたのかもしれない。

もしそうなら、あれが現実のタイタニックじゃない証明になるからね。

だから郵便室とか一等ダイニング・サロンとかのことを根掘り葉掘りきみに質問したんじゃないか。

自分が見たものが現実と一致しないことを願って」

「でも、そしたら松田愛実はどうして自分が見たものを書き留めておかなかったの?現実との不一致を証明する気だったのなら、文書化しておこうとしたはずよ。

でも、松田愛実の臨死体験談は、テープでも文書でも、煙や火や霧にはいっさい言及してない。

それが出てくるのはメイジーの話と、ミズ・シュスターの話。

これが鍵だと思う」

「まあとにかく、その答えはあと数分でわかるよ」

大木一雄はかろうじて見える標識を指さした。

《ティンバーラインまで8マイル》霧は着実に濃くなり、道のカーブも増えてきた。

大木一雄はセンターラインを見失わないことに全神経を集中した。

大木一雄が車を出すと、キットはいった。

「それで、だれだったの?」

「聞いても信じないよ」

といいながら、大木一雄は車をエヴァンズに乗り入れた。

サンタフェ方向に走り、1-25に乗るまでのあいだに、カール・アスピノールのことを話して聞かせた。

「アスピノールは昏睡状態のあいだに経験したことを松田愛実に話したにちがいない。

そして、その話のなにかがーあるいはその話と、彼が意識のないあいだにつぶやいた言葉との組み合わせが1謎を解く鍵になった」

「そのなにかを彼が知ってると思う?」

「どうかな。

松田愛実が『わかった!』とか叫んで、どうしてそんなに興奮してるのかをカールに説明していればいいんだけど。

もしそうじゃなかったら、ぼくらも自力でそのなにかを発見しなきゃいけない。

ねえ、そのプリントアウト、声に出して読んでくれないかな」

キットがうなずき、プリントアウトをめくりはじめた。

車はすでにー-70に乗り、西に向かっている。

ゴールデンの近くで霧はいくらか薄くなったが、山麓に入るとまた濃くなってきた。

前を走る車が霧の中に姿を消し、道路の左右の岩がちの斜面も見えなくなる。

車二十台の玉突き衝突か。

大木一雄はヘッドライトを点灯し、速度を落とした。

「『・・・・・半分・・・・・』」

とキットが読み上げる。

「『・・・・・に・・・・・[聞きとり不能]・・・・・火を・・・・・熾し・・・・・』」

プリントアゥトから顔を上げ、「いまどこ?」

と白い霧に包まれた周囲を見まわした。

「1-70をティンバーラインに向かってる」

大木一雄はメイジーがメモした道順の紙をさしだした。

「アスピノール夫妻は山荘にいるんだよ。

どこの出口で降りればいい?」

キットは道順を読んだ。

「これね」

と霧の中でかろうじて見える緑の標識を指さした。

「そのあと58号線を北へ」

ふたりとも前に身を乗り出して標識を確認しようと目を凝らし、首尾よくハイウェイ58号線に入った。

それからキットが朗読を再開した。

「『・・・・・水・・・・・おお、大きい[聞きとり不能]・・・・・煙』―」

大木一雄は言った。

「人と会う用がー」

「下までおともしますよ」

弁護士はいっしょについてきて、大木一雄のうしろから手をのばして《下》ボタンを押した。

「患者が法的に死亡している以上、移植用の臓器摘出に求められるのと同様の法的認可が適用されるでしょう」

エレベーターが到着し、大木一雄と弁護士は乗り込んだ。

「何階です?」

「G階」

「あいにくマーシー・ジェネラルには死亡直後の遺体を使って実験することを禁じる規則がありますが、これはインターンが大腿動脈カテーテル法などの練習に遺体を使うことを防止するのが主目的ですから、先生の治療法はこれに当たらないと主張できます。

第二の選択肢は、《最大処置》命令ですね。

患者の生命を救うため、あらゆる可能な処置をとることを要求するものです」

エレベーターがG階に着き、ドアが開いた。

弁護士が大木一雄のあとに着いて降りた。

「EM合意書は法的にはリスクが大きいんですが、死後実験よりはやい段階から処置を実行できる利点があります。

現時点では、あらゆる選択肢を考慮に入れて検討していますよ」

弁護士はそういって扉が閉まりはじめたエレベーターの中にもどった。

やれやれ、助かった。

ついてくるといいだすかと思った。

大木一雄は駆け足で車に向かった。

遅れるとキットに電話しようかと思ったが、もしまたブライアリー先生が電話に出たら、それで時間をとられる。

直接行ったほうがはやい。

とくに、道がすいていれば。

道は混んでいた。

インターンがいったとおり霧がひどく、車は這うような速度でのろのろ走っている。

着いたときには三時二十分になっていた。

それに、ブライアリー先生から脱出するにはもう三十分かかるだろうと思ったが、家の前に車をとめるとすぐ、キットがプリントアウトを持って出てきた。

「携帯も持ってきたわ」

キットが電話に出た。

そして、驚いたことに、すでに伯父の面倒をみてくれる人が来ていることが判明した。

「タイタニックの火事のこと、図書館に行って調べてみようと思って」

「彼らがほかになにを見るわけがあろう」

と背後でブライアリi先生の声がいった。

「それは鏡像そのものだ」

「介護の人は何時までいられるの?」

「七時。松田愛実が会いにいった相手が見つかったのね?」

「うん。いっしょに行ってほしいんだけど。行けそう?」

「ええ!」

「よかった。いまから迎えにいくよ。コーマ・カールのプリントアウトを持ってきてくれ」

「メタファーはたんなる言葉のあやではない」

とブライアリー先生がいった。

「もう切らなきゃ」

キットが住所を告げた。

「人間精神の本質であり、様式だ」

とブライアリー先生がいった。

「十分ぐらいで行けると思う」

大木一雄は電話を切り、携帯をポケットに突っ込み、駐車場に向かった。

エレベーターのすぐ手前で、スーツ姿の若い男にさえぎられた。

「もしやドクター・ライトでは?」

といって、男は片手をさしだした。

「すれ違いにならなくてよかった。

ダニエルズ・ダットン&ウォルシュのヒューズ・ダットンです。

ミセス・ネリスの弁護士の」

階段にするべきだった。

「いまは話してる時間がなくて。

これからー」

「ほんの二、三分で済みますから」

ダットンは背広の内ボケットからパーム・パイロットをとりだした。

「先生が開発した心停止療法の承認について交渉中なんですが、二、三、確認しておきたい件がありまして。

これは分類上、医療手技に該当するのか、それとも薬物ですか?」

「どっちでもないよ。

治療法なんか存在しない。

ミセス・ネリスにもそう説明したんだが、耳を貸してくれなくて。

臨死体験に関するぼくの研究はまだほんの準備段階だ。

純粋に理論的なものなんだよ」

弁護士はパーム・パイロットにメモをとった。

「開発準備段階の治療法、と」

この男はメイジーの母親とおなじぐらい始末が悪い。

「開発準備段階なんかじゃない。

治療法は存在しないし、もし万一存在したとしても、子供相手に実験的な使用が承認される見込みはi」

「通常の状況下ではおっしゃるとおりです。

しかし当該治療法が心停止後状況に適用されるものであることに鑑みれば、いくつか選択肢が考えられますね。

そのうちもっとも問題が少ないのは、この療法を死後実験と分類することです」

この男がいってるのはメイジーのことだ。

大木一雄はぎりぎりと歯噛みしながら、「急ぐので」と相手の横をすり抜けてエレベーターのほうに歩き出した。

キットに電話した。

伯父さんをみてくれる人間をこんな短時間で手配するのは無理だろうとは思ったが、すくなくともカールが昏睡中につぶやいた言葉のプリントアウトを借りることはできる。

カールに会う前に目を通しておきたかった。

キットの電話は話し中。

腕時計を見た。

もう二時をまわっている。

ティンバーラインまでは山に向かってゆうに一時間半のドライブだ。

もう一度キットの番号にかけてみた。

まだ話し中。

プリントアウトは持たずに出かけることになりそうだ。

キーホルダーをつかみ、戸口に向かいかけて立ち止まった。

これでは松田愛実とおんなじだ。

どこへ行くかだれにも告げずに出かけようとしている。

ERに電話してヴィエルと話したいといった。

「いまは電話に出られません」

と電話に出たインターンらしき声がいった。

「こっちはてんてこまいで。

1-70で車二十台の玉突き衝突ですよ。

濃霧で」

ティンバーラインまでは州間高速70号線だ。

「場所は?」

「ベネットの東です。

ヴィエルに伝言は?」

「ああ。

カール・アスピノールに話を聞きにいくと伝えてくれ。

C―A―R―L―」

さらにアスピノールの綴りをゆっくり教えて、「もどりしだい連絡するといっといてくれ」

「了解。

運転に気をつけて」

大木一雄は電話を切り、もう一度キットにかけてみた。

ブライアリー先生が出た。

「だれだね?」

「大木一雄です。キットにかわっていただけますか?」

「彼は死んだよ。

デットフォードの宿屋で刺殺された」

「わたしによ、パット伯父さん」

とキットの声。

それから女性の声が、「ごめんなさい。

紅茶を渣れてくれって頼まれたもんだからー」

そこまでしか聞こえなかった。