生きてりゃ楽しい事もあるって!

生きてりゃ楽しい事もあるって!

騙されやすく恋愛も浮気されてばかり…死んだら楽かなと思った事も
ある。でも人生をふり返ると「面白く感動した体験」の方が多い事に
気づいた。おかげで今は「生きてば楽しいこともある」と思う毎日。
ここでは人生の体験を通じて考えさせられた事をお伝えします。

 毎年2万人近くの人が自殺する。死にたくなる気持ちは痛いほど分かる。自分も当事者だから。

 

 

 死を考えている人は、今どんな状態?

 何事も上手くいかず絶望の果てに人生を終わらせようとしているのか? 心身ともに苦しくて、それから逃れたいために死にたいのか? 自分の命を賭して抗議の意味で死ぬのか?

 死を考えるときはいろんな状況がある。三番目のなんて、僧侶が焼身自殺するときがそうだもんね。

 

 

「死にたい」「死ねば楽だろうな」「死んでやる!」は違う。

「死にたい」は逃げたい。何もかもが嫌になったときの現実逃避。

HSPの自分が、浮気されたショックごときで死に追いつめられたときは「死ねば楽だろうな」だった。眠れず吐き続ける毎日は本当に苦痛だった。不治の病で苦しんでいる人もこう思うのだろう。

死んでやる!」は自暴自棄のやけくそ単純行為。後先のことは何も考えていない。それは命というものを軽んじすぎている。僧侶の焼身自殺とは覚悟が違うので一緒にできない。

 

 ついでながら「死んでお詫び」というのもある。自責の念に駆られ、自らの死を持って償おうとする。責任感の強い人がやってしまいそうな行為。子どもがとんでもない犯罪をしでかしてしまった親もこれになるのだろうが、さらに辛く苦しい思いから解放されたいという気持ちもプラスされる。これは人の同情を誘う自殺になってしまうな。

 

 

 死ぬ度胸とかいうけれど、死ぬことに度胸も勇気も関係ない。絶望と衝動が大半。あるいは頭が空になりふらふらと死地に足を踏み入れることもあるだろう。

 自分はそうだった。崖の上で「死ねば楽だろうな」と思ったが、幸い親友がそばにいてくれ旅の途中で気づかされるものがあって、今まで生きながらえることができた。突発的な事故や病気は別として、今では自ら「死にたい」とは思わない。もし、あのとき自分が崖から落ちていれば、それは自殺ではなく不可抗力だ。自分の積極的な意志ではないのだから。

 

「死にたい」と思っている人は、まだ留まる余地がある。それも積極的な自死願望ではないからだ。ただの思いだ。誰かに助けてもらおうと思わないまでも、心のどこかで生きる希望を見出そうとしている。そういう思いがあるにもかかわらず命を絶ってしまうのはもったいない。

 

「死にたい」「死ねば楽だろうな」は、ちょっと考える時間ときっかけがあれば、その思いを踏みとどまらせることができる。

 自分の場合はこう考えた。「どうせなら一度は良い思いをしてから、できれば良い結果を見てから死にたいな」と。そういう覚悟を持ってダラダラしながらでももう少し生きてみようと考えた。そうでないと悔いしか残らないし。

 ところがだ、良い結果が出たら死ぬ気がなくなった

 

 

「死にたい」と思っている人は、今の苦しさに耐えられるかどうかが鍵。それにはどうすればいいか? 一人で悩まないこと。悩むんだったら誰かと話をすればいい。相談なんて堅苦しいのはいらない。単なる雑談でもいい。愚痴を言うだけでもいい。

 友だちや信頼できる人が居ようが居まいが関係ない。話を聞いてくれる窓口はいっぱいある。とりあえずその人たちと話をしてみるといい。むしろ他人の方が気が楽。ただし、相談者に当たり外れがあることは覚悟しておいて。優れた人とそうでない人もいるだろうけど、それ以上に相性というものもある。

 説得されるわけではないから変に構える必要はない。解決策を提示してくれることなど期待せずに気軽な感じでいこうよ。

 

 とにかく、まずは誰かと話をしてみるといいのだ。そこで分かる“ひとつハッキリしていること”は「自分は一人ではない」ということ。

 自分の「死にたい」という思いがどこまで本気なのか、あるいは留まるものなのかどうか、話をするということを試してからでもいいんじゃないかな。まずは話をしてみましょ。

[後記]

 寂しい主婦が多いと聞く。子どもが独立し、旦那は相手をしてくれず、主婦友もいない。その結果、鬱になる。そのような鬱も「死にたい」と同じような状況。だから、一人だけで抱え込まず、誰かと話をしようよ。