パッと見で大丈夫でも、大丈夫じゃないとき | フィリピンで働くシリアル・アントレプレナーの日記

パッと見で大丈夫でも、大丈夫じゃないとき

今朝の日テレで「スッキリ」を観ていたら、
はるな愛が東北の避難所に慰問に行ったときの話をしていた。

はるな愛によると、はるな愛と会って、大泣きした被災者がいると言う。
そして、その被災者が、後からダーっと走ってきて、こう言ってきたとのこと。
「みんな泣きたいけれど泣けない。泣かしてやってくれ」

それをスタジオで見ていた野口健のコメント。
「海外では我慢づよいと表彰されるけれど、感情をださないと自分に向かっていく」
「感情を出した方が、本当はよい」

香山リカのコメント。
「感情が出てきたときの長期的なケアが必要」

そうだよなぁ、と思った。



震災ほどではないが、自分も以前、とても悲しい思いをしたことがある。
事件の直後はとても悲しかった。
事件から1年経って、だんだん大丈夫になってきたと思ったら、第二波がやってきた。
改めて涙が滂沱と出た。
事件を耐え切るために、感情を凍らせていたんだと気づいた。
感情が解放されたからか、改めて泣いた後で、自分自身から虹が出る夢をみた。
その後1ヶ月ほどは、脱皮したての皮膚のようにちょっとした刺激が心に突き刺さる状態が続いたけれど、
それが終わると、すっかり元気になった。
もう大丈夫だと思っていた。
そしたら、第二波の約1年後にまた、第三波がやってきた。
第二波よりも小さいものの、また涙がたくさん出た。
「自分は、まだ悲しかったんだ」 
そう気づいた。



パッと見で大丈夫でも、大丈夫じゃない。 
そういう状態は、ある。
非常時をサバイブするために、痛みを平時に分散するために、
人間の精神の仕組みとして組み込まれているのだと思う。
たぶん、コミットメントの強い人や、守るべきものがある人ほど、
パッと見だけは大丈夫になりやすいのだと思う。



パッと見大丈夫だから、「助けて!」 というサインを見逃しやすいけれど、
それどころか、本人すらも大丈夫じゃないと自覚していないことが多いけれど、
ちょっとしたサインはところどころ出ている。

なるべく見逃さず、しっかり長期にわたってケアできるようにしたい。