安全も安心も守る
今回の震災に対応するなかで痛感したのは、安心と安全は違うということだった。
・安全は、物理的なダメージがないかどうか
・安心は、精神的なダメージがないかどうか
これまでは、安全=安心だと思っていた。
だから、安全さえ確保できれば大丈夫だと思っていた。
でも、違う。
「一人でいると不安」
「子どものもとに一刻も早く帰りたい」
余震が来る中、誰かがそばにいたとしても、安全は守れない (=物理的なダメージは防げない)
けど、安心はできる。 (=精神的なダメージはある程度軽減できる)
日本人の多くが地震で精神的に参っている状況を思うと、
安全だけでなく安心を重視するのは、非常に合理的。
企業も、国も、誰かの生活を預かる組織全てにおいて、
安全だけじゃなくて、安心を守ることが大切。
また、なにをもって安全と言えるかは、科学的なモノサシがあるが、
安心の基準は人によってバラバラ。
安全さえあれば安心な人もいるし、すごーく配慮しなければいけない人もいる。
家に帰ったほうが安心な人もいるし、会社に来ているほうが安心な人もいる。
情報を提供されると安心できる人もいれば、情報過多で混乱して不安になる人もいる。
一人ひとりに耳を傾けて、
「この人を安心させるには何が必要か」 を考え、
組織として提供可能なものを見極め、
提供し続ける。
感覚値で言うと、10人に安心を提供するためには、1人が安心の提供に従事する必要がある。
つまり、安心を提供するには、十分な人的リソースが必要。
安全を守ることよりも、安心を守ることの方が難しい。
・安全は、物理的なダメージがないかどうか
・安心は、精神的なダメージがないかどうか
これまでは、安全=安心だと思っていた。
だから、安全さえ確保できれば大丈夫だと思っていた。
でも、違う。
「一人でいると不安」
「子どものもとに一刻も早く帰りたい」
余震が来る中、誰かがそばにいたとしても、安全は守れない (=物理的なダメージは防げない)
けど、安心はできる。 (=精神的なダメージはある程度軽減できる)
日本人の多くが地震で精神的に参っている状況を思うと、
安全だけでなく安心を重視するのは、非常に合理的。
企業も、国も、誰かの生活を預かる組織全てにおいて、
安全だけじゃなくて、安心を守ることが大切。
また、なにをもって安全と言えるかは、科学的なモノサシがあるが、
安心の基準は人によってバラバラ。
安全さえあれば安心な人もいるし、すごーく配慮しなければいけない人もいる。
家に帰ったほうが安心な人もいるし、会社に来ているほうが安心な人もいる。
情報を提供されると安心できる人もいれば、情報過多で混乱して不安になる人もいる。
一人ひとりに耳を傾けて、
「この人を安心させるには何が必要か」 を考え、
組織として提供可能なものを見極め、
提供し続ける。
感覚値で言うと、10人に安心を提供するためには、1人が安心の提供に従事する必要がある。
つまり、安心を提供するには、十分な人的リソースが必要。
安全を守ることよりも、安心を守ることの方が難しい。