ハロルド・ジェニーン著「プロフェッショナルマネジャー」 | フィリピンで働くシリアル・アントレプレナーの日記

ハロルド・ジェニーン著「プロフェッショナルマネジャー」

年末に、柳井さんが 「僕の運命を変える一冊」 と評した、
ハロルド・ジェニーン著「プロフェッショナルマネジャー 」を読んだ。

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私の評価では、先の二人の学生は経営者ではない。キャルは成り行きに任せて漂流しただけだった。アルはある目標を立ててスタートし、まじめに努力もしたが、不測の事件の波に押し流されてしまった。この2人の青年がどんな成功を収めるにせよ、それは普通 "幸運" と呼ばれるものに依存している。ほかのだれもが自分たちよりもうまくやれなければ、なとか他の連中を出し抜くことができるだけだ。三人目の青年ハルは、ビジネス・スクールに行きつく前から経営者だった。彼は本能的に企業経営の本質をつかんでいた。それは彼が勉強に励んだからではなく、ひとつの対応がうまくいかなかったら次の対応を、、そしてまたつぎの対応を・・・目標に達成するまで試み続けたからである。それが "経営する" ということなのだ。
(P119)
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すべての良い企業経営の最も重要かつ本質的な要素は情緒的態度である。あとはすべて機械的な要素ばかりだ。私流の言い回しをさせてもらうあんら、マネジメントとは人命と肩書を枠で囲んで組織的に書き込まれた四角い仕切りの集合ではない。マネジメントは生きている力だ。それは納得できる水準ーーその気があるなら高い水準ーーに達するように、物事をやり遂げる力である。ある企業にはそれがあり、ある企業にはない。マネジメントには目的が、献身がなくてはならず、その献身は情緒的な自己投入でなくてはならぬ。
それは真の経営者ならだれでも、人格の枢要部分として組み込まれていなければならないものだ。言い方を換えるなら、それは、経営者は経営しなくてはならなという意味がわかる人間のことだ。
その態度はまた自己達成的なものでもある。「自分はこれをやらなくてはならない」と決めた人間は、いつという時間の見境なくそれに取り組み、満足できる答えが見つかるまで、何度でもやり直すだろう。その答えは、何よりもまず、自分自身にとって満足のいくものでなくてはならない。そのことは本人も承知している。あることをやるのに七十八通りのやり方があるとして、どうにか満足できる答えにつながっているのは、その中の十通りだけだ。それは全部の中で最善の答えではないかもしれない。しかし、彼は十より下のものでは我慢できない。そして次の機会にはもっと上位の、より良い答えを求めて奮闘し、絶えずなにか新しいことを学び、より良い結果を達成できるようになっていく。彼がそうするのは、他の何より彼自身の情緒的態度によるもので、一緒に働いている人々もかならずその態度をまねるようになり、やがてそれはその組織の気風となる。なすべきことをしようとする衝動の原動力となるのは、論理ではなく、深いところに内在する情緒である。自分がなぜそういう風に行動するのか、またなぜほかの行動ではなくその行動を選択するのか、彼には説明できないかもしれない。彼がそうするのは、それが正しいことだと "感じる" からだ。その情緒の動きは彼と一緒に、あるいは彼の下で働く人びとにも伝わる。彼のその情緒的献身は、会社の目標のみならず自分たちに対するものであることを、彼らは感じ取る。そして彼らは彼の性格の本質をなすその "情緒" に同調して、喜んでで彼のリードに従う。
(P293)
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一人前の経営者となったら、毎日午後五時になると、必要とされる個人的犠牲に現実に直面させられることになる。経営者の正規の執務時間はおおむね他人のためのものだ。組織の中の誰かが彼と連絡を取る必要がある時には、いつでもそれに応じられなくてはならない。公式、非公式の会議、そして同僚や部下との一対一の話し合いは際限のない緊張を彼にしいるだろう。人びとは彼のところへ、さまざまな要求、苦情、問題ーーすべて会社の中から発生するものーーを持ってくるだろう。そして対外的には、自分に会いたいという人びと、自分の方から会いたい人びと、会いたくないけれども会わなければならない人びとが陸続と続き、それに加えてどうしても断るわけにはいかない昼食会など・・・。
しかし、午後五時になると、押し寄せる人々とその要求の波はとまる。そして彼は一人机に向かって座り、ようやく自分のしたいことをしてもいい時間がきたことを知る。机の上のブザーを押せば、秘書が御用を承りに来るだろう。下には運転手つきの専用車が待っている。近くの空港には会社の飛行機も待機している。行こうと思えばどこへでも行ける。机の上にはコンピューターのターミナルもあるかもしれない。それでその日の株式市況や、ニューヨークやロンドンの劇場でどんなショーをやっているかをチェックすることもできよう。また、出席するつもりなら、ほとんどいつでもディナーへの招待があるだろう。しかし、また、机の上には "宿題" もある。
ほかのみんながいなくなってしまったその時間こそ、自分自身の仕事、自分自身の思考ができる時間だ。むろん、やらなくてもかまわない。彼がそうしないからといって、会社は潰れはしない。彼に代わって決定をしたがっている人間はいくらでもある。だから適当に彼らに任せ、しかも自分がやっているように見せかけることもできよう。しかし、そこには違いができる。それらはもはや彼の命令、彼の決定ではない。他の人間が行ったものを、彼の口から伝えているだけだ。そのことは自分も知っているし、組織の中の他の連中も知っている。そして彼は仲間や部下たちの尊敬と信用と呼ばれるものを失う。彼のリーダーシップは官僚主義にとってかわられ、会社の活力は沈滞する。それは極めて徐々に進行するので、気がつくのはよほど敏感な人びとだけだ。しかし本人は、心の底でそのことに気づかないはずはない。それを選択したのは彼自身なのだ。--きみは夜遅くまで宿題をやろうと思うか? それとも仕事じまいをして家へ帰り、残った仕事は他人任せにするか?
私はITTで、通常の執務時間の終わりにいつもその選択に直面させられた。時には溜息をついたりもして、私は家へ電話をかけ、帰りが遅くなると知らせた。それから上着を脱いで古い黒のセーターに替え、やおら宿題の取り組みにかかった。夕食が運ばれて来、それを執務室にある小さなテーブルで食べた。妻は私がまた十一時半かもっと遅くまで帰宅しないことを覚悟した。それは私の時間であり、私はそれを、思案と反省と決定事項について考えを決めることに充てた。そんなに時間と努力を注ぎこむのはばかげていないか、自分はやり過ぎをしているのではないかと疑ったこともしばしばだった。しかし、他にやりようはない、というのが私の普遍の結論だった。真のリーダーで、どれほど高価につこうとも自分に課された宿題をやらない人間には、私は会ったことがない。本当に、ほかに道はないのだ。
(P299)
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熱い!

熱いよ~と思った。

午後五時になると、押し寄せる人々とその要求の波はとまる。そして彼は一人机に向かって座り、ようやく自分のしたいことをしてもいい時間がきたことを知る・・・ほかのみんながいなくなってしまったその時間こそ、自分自身の仕事、自分自身の思考ができる時間だ。

ほんと、その通りだと思う。 (飛行機の中で仕事するの大好き!)

また後日、別のを紹介するが、ユニクロ柳井さんがおススメする本は、本当に面白い。