摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)

(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

 

存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)

 

私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。

 

その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)

 

私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。

 

だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。

 

しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。

 

確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。

 

その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。

舎利子

(しゃりし)

 

ブッダの弟子のシャーリプトラよ。

 

私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。

 

今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。

色不異空 空不異色

(しきふいくう くうふいしき)

 

まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。

 

つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。

これは事実として理解できるね?

 

体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。

 

この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。

 

「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。

色即是空 空即是色

(しきそくぜくう くうそくぜしき)

 

私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。

 

存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。

 

そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。

 

もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。変化をしないから固定的な物体なのだ。

 

しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。

 

どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。

受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)

 

そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。

 

つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。

 

これが何を意味しているかわかるだろうか?

 

そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。

 

固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。

 

ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。

 

できる、というよりも、「認識してしまっている」と言ったほうがより正しいかもしれない。

 

しかし真実としては、自分というものは存在しない。

 

これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。

 

 

舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)

 

シャーリプトラよ、驚いただろうか?

 

それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?

 

もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?

 

まあ、今はどれでもいい。あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。

 

ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて、真実を見抜いていこうとする姿勢だけは失ってはいけないよ。

 

このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

 

あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。

 

あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。

 

「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議な「はたらき」なのである。

 

「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。それが、命だ。

 

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。

 

この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。

 

「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」

 

これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。

 

存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。ただ、変化を続けるだけである。

是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)

 

これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。

 

私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。

 

つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)

 

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。

 

そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。

 

見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。

 

それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)

 

私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。

 

つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じとった世界であって、世界そのものを感じているわけではない。

 

世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところにのみ生まれるものなのだ。

 

そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)

 

私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。

 

真実とは、存在は「空」だということ。誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。

 

なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。

 

あらゆるものは、有るようで無いのである。

 

それは、ただ無いのとも違う。やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)

 

だから、老いや死ということも、本当は存在しない。

 

老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。

 

老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

 

あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。

 

それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。

 

じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。

 

ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。

 

私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。真実を受け取るとは、知識で理解することではない。

 

だから、得ることなどできないのだ。

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)

 

無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うよりほかに方法がない。

 

誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのである。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)

 

ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。

 

わだかまりを抱くことが何もない。

 

わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。

 

心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)

 

人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。

 

だが、本当にそうだろうか。

 

たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?

この体を作ったのは、自分か?

熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?

 

自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。

 

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからである。

 

このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

 

いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。

 

よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を悟った者を指す言葉でもあるのだよ。仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。

 

真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などない。誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

 

だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。

 

人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。

 

存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)

 

あらゆるものは「空」である。

 

この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。

 

だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。

 

病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)

 

最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。

 

これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。

 

だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。頭で理解することが、理解の全てではないのである。

 

では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)

 

ギャーテーギャーテー

ハーラーギャーテー

ハラソーギャーテー

ボウジーソワカー

 

般若心経

(はんにゃしんぎょう)

 

これで、存在が存在することの意味を説く、般若心経の教えを終わる。

 

『般若心経』のまとめ

以上が私なりの般若心経の現代語訳です。

 

頭で理解するだけが理解のすべてではない。自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視しますが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれません。

 

けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないのですから、本当は何も難しく考える必要はないのでしょう。

 

目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、それらすべてが「空」という真理を体現していることを感じて生きれば、それでいいと思うのです。

 

だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれません。

 

前述のように、『般若心経』は「空」の思想を説いた経典です。あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。

 

しかしその真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。

 

真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。

 

『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあります。すなわち、執着から離れよ、執着すべきものなど何もない、ということが言いたいのです。

 

禅の視点から引用

この物質世界は

 

この物質世界は、修行の場であり

 

魂を成長させる所です

 

しかし、物理学や科学では

 

存在しないことは、

 

わかっています

 

映画と同じで、

 

光と粒子により

 

あるように映し出しています

 

生命エネルギーとしては

 

存在してはいるようです

 

そこで、この物質世界と

 

精神世界と繋がっているもの

 

それは、感情です

 

それに気付くと

 

恐れや不安、怒りなどの

 

感情になることより

 

愛と感謝の感情を

 

維持することの

 

大切さが理解できると思います

我欲を、引き寄せない

 

人のためにとか、

 

世の中のためにとか、

 

そうゆう、引き寄せしかしないのは

 

身体、精神、経済が

 

とても、潤っているからだと思います

 

今、私がしたいことは

 

ナチュラル整体院を、日本中に広め

 

そこに関わる、全ての人が

 

愛と感謝に満ち溢れ

 

自己承認、自己肯定出来ている人を

 

一人でも多く増やしたい

 

一人が変われば

 

周りの人も変化していきます

 

そうすると、確実に社会は

 

いい方向に向かうと

 

思っています

引き寄せの法則

 

ナチュラル整体院は、

 

ニュースキャンメインに

 

開業しました。

 

ニュースキャンという機器は、

 

思い入れのあるものです。 

 

何千年もの昔から聖者と呼ばれる人々は、

 

物質の本質は空(くう)である 物質は幻想である。

 

全てはつながっている。

 

という類のお話をしてきました。 

 

仏教の般若心経における、

 

色即是空、空即是色という言葉も、

 

まさに 物質の本質は物質ではない、

 

ということを語っています。 

 

科学や物理学が進化した今、

 

まさに証明されています。 

 

そのことを理解した上でこの世は、

 

周波数で存在していて 

 

その周波数を測定して

 

その周波数を元に戻す機器です。

 

しかし、10年早いと思っている

 

ニュースキャンでは、

 

お客さんは、来てもらえません。

 

そこで、なんとかして欲しいと

 

潜在意識に、働きかけました。

 

そうすると直ぐに

 

今、痛みのテクノロジーでは

 

最先端とで、痛みの原因のほとんどだと

 

言われている「もやもや血管」を

 

鉱石の周波数で拡散させる技術が

 

飛んできました。

 

いつもながら驚きですが

 

引き寄せの法則を体感した

 

瞬間でした。

全ての人は創造主

 

全ての人は創造主と

 

私は思っていて

 

誰でも、全ての人が

 

思い通りの人生に

 

なるのに、ただやり方が

 

わからないだけなんです

 

やり方を、簡単に説明すると

 

精神世界をイメージして

 

いつも、愛と感謝の周波数(7.5hz)にする

 

現実世界では、自分の使命を

 

果たす言動をする

 

ただ、それだけです

現代科学の事実

 

私は、科学者でもないので

 

現代科学の事実だけ

 

仮説も含めていうと

 

光は、波動であり粒子である

 

原子や分子まで解明されている

 

超ひも理論やゼロポイントフィールドなど

 

仮説でしか説明できない

 

現実世界は、映画と同じで

 

光の集まりからなり脳内の情報である

 

全てのものには周波数があり

 

私たち一人一人も光エネルギーであり

 

周波数であり、感情も周波数である

空を理解すると

 

私たちは、現代科学において

 

原子や分子の部分までしか

 

理解していない

 

ひも理論仮説にしても

 

ゼロポイントフィールド仮説にしても

 

仮説でしかない

 

しかし、原子の大きさを

 

サッカーボールにすると

 

電子の大きさは

 

パチンコの大きさで

 

なんと、東京から小田原(80km)も

 

離れている現実

 

99.999%スカスカの

 

現実世界がある

 

しかし、世界は見えるし

 

音は聞こえるし

 

物を触ることだってできる

 

物理的に考えると

 

有り得ない世界がある

 

その事を般若心経は

 

見事なまでに説いている

 

そして目の前に広がる世界のすべて、

 

砂の一粒とってみても、

 

それらすべてが「空」という

 

真理を体現していることを

 

腑に落として生きると

 

全てが楽になります

 

そして、私たちは

 

光エネルギーであり

 

周波数で存在している

 

事がわかります

 

個々の臓器にも周波数があり

 

感情も周波数です

 

それが分かると

 

感情を不安や恐れ、怒りの

 

周波数にしないで

 

愛と感謝の周波数にすることの

 

大切さが理解できると思います

ゼロポイントフィールド仮説

 

現代科学において、

 

ゼロポイントフィールド仮説という

 

ものがある

 

ゼロポイントフィールドとは、

 

アインシュタインが量子力学の

 

研究中に発見したようです

 

宇宙は量子真空が

 

ある時ゆらぎが生じ、

 

それが膨張してビッグバンが起こり

 

宇宙が生まれたことから、

 

宇宙はこのゼロポイントエネルギーで

 

充満している

 

このゼロポイントフィールドには、

 

宇宙の過去・現在・未来の

 

できごとすべての情報が

 

記録されていると言われてる

 

そこで、私が思ったのは

 

この現実世界は、実態がないとしたら

 

私が、いつも精神世界を

 

イメージする時

 

大きな一つの光の玉があり

 

よく見るとおびただしい

 

小さな光の集まりなんです

 

その大きな光の玉に

 

入っていく光の束と

 

出て行く光の束があります

 

それが、私が思う精神世界です

 

その宇宙の至るところに

 

偏在している

 

目には見えない

 

膨大なエネルギーは

 

存在するとしたら

 

私達の生命エネルギーでは

 

ないかと思いました

ひとつだけ悲しいこと

 

この世は、全てが

 

「空」という事を

 

腑に落としても

 

ひとつだけ、悲しい事がある

 

別に自分が死ぬことも

 

老いることも

 

病気になることも

 

怖くない

 

しかし、家族が居なくなる事だけは

 

何故か辛いと思う

 

愛別離苦ってやつです

 

本当は、お釈迦様のおっしゃる通り

 

この世は、脳内の情報に過ぎない

 

存在しないと理解していても

『般若心経』は「空」の

 

思想を説いた経典です。

 

目の前に広がる世界のすべて、

 

砂の一粒とってみても、

 

それらすべてが「空」という真理を

 

体現していることを感じて生きれば、

 

それでいいと思うのです。

 

その真実を知るだけで

 

人は安らかに生きることができます。

 

そして、お釈迦様のおっしゃる

 

中論思想で、物質(現実)世界と

 

精神世界のどちらに偏らない

 

どちらも有る、どちらも無い。

 

そして、物質世界では

 

与えられた役割を淡々と

 

行っていく。

 

精神世界では、常に愛と感謝の

 

周波数を維持する。

 

それだけで、思い通りの

 

素晴らしい人生になります。